Yasushi Akashi 明石 康さん
スリランカ平和構築及び復旧・復興担当 日本政府代表

ボクシングに例えるならば、私は凡庸なボクサー。
パンチはないけれど、ジャブを繰り返し続ける。

日本人初の国連職員。
カンボジアや旧ユーゴスラビア問題に立ち向かい、国連事務次長などを歴任。
粘り強さとユーモアを駆使して、世界を駆けめぐる。


  「私は隙だらけの人間なので、ぜひ突っ込んでくださいね」
 世界各地の紛争と復興に立ち向かってきた男が、ユーモアを交えてそう話す。
 ゆるやかな口調と、柔らかな物腰。じっと相手を見つめる眼差し。耳を傾ける聴衆の心もちを、温和な表情がリラックスさせる。
 秋田県市町村会館で開かれた国際文化講演会『わが国の陥没は続くか』。そのタイトルや内容とは裏腹に、話は終始和やかに進行した。
 現在、「スリランカ平和構築及び復旧・復興担当」の日本政府代表。世界を駆けめぐる日々のなかで、日本を、ふるさと秋田をどう見つめているのだろう。


学問に導かれアメリカへ


 「日本はひところに比べて、ビジョンや活力が萎えていると思う。いまの日本を考えると、不安どころか危機感を抱いてしまう」
 そう憂える。アジア各地を旅すると、さらにその感を強めるという。
 「アジア諸国のなかで、日本の雰囲気はいかにも重苦しい。例えば、日本の大学で日本人学生だけの授業だと学生はシーンとしている。その中にアジアの留学生が入ると、議論は活気を帯びてくる。留学生の比率が一、二割ほどあれば、クラスが活発になるのではないか」
 国際舞台で紛争解決と和平に努めてきた経験から、いくつかの大学で教鞭を執る。未来を担う学生への期待は大きく、教育現場への苦言は厳しい。
 「日本の教育の一番の問題は、大学教育と大学院教育にある。大学は、国際的競争力のある人材を育成できるのだろうか。私は日本人の学生からはほとんど質問されないが、留学生からは実に厳しい質問を浴びせられる。これは語学力の問題ではない。日本人は受け身の態度。何かに疑問を持つとか、それ以外の考え方があるのではないかという意識を持つ学生が少ない。社会にも、外交にも、答えはいくつもあるはずなのに」
 自身、世界を舞台にした仕事のなかで大きな支えとなったのは、学生時代に学んだ学問だった。
 旧比内町から秋田市、秋田から山形、そして東京へと学問に導かれるようにふるさとを離れ、東京大学で文化人類学を学んだ。アメリカへの興味からトーマス・ジェファーソンの政治思想を専攻、卒業後は日本を飛び出した。

日本人初の国連職員

 アメリカではバージニア大学大学院やコロンビア大学大学院に留学、国際関係論の修士課程を終え、外交官や国際関係の専門家を養成するフレッチャースクールで学んでいた時、歴史的瞬間に立ち会うことになる。
 一九五六年十二月十八日。
 太平洋戦争に敗れた日本が、国連の加盟国として承認された日。日本の悲願だった歴史的なその瞬間を、ニューヨークの国連本部で見た。
 戦後、独立国として認められなかった日本が、日本国憲法を掲げて国際舞台に初めて立つ―。
 感動的なその場面を見て、翌年、日本人として初めて国連職員に。以後、国際政治のまっただ中で奮闘することになる。
 国際連合は、国際平和と安全を維持することを目的に設立された国際機構。国と国との紛争の解決や、戦争を終わらせるための手助け、戦争による被害や自然災害に見舞われた国に対する人道的援助、環境問題や外交関係に関わる国際協約や国際条約を提案するなどその役割は多岐にわたる。国際世論をリードし、地球規模でのルールづくりをするなど、世界の現場に居合わせてきた。
 「いま日本には、国際的なルールや規範を形成する力を持つ人が少ない。自ら国際舞台に加わって、日本が世界に受け入れられる規範をつくらなければならない。日本の利益を守るためにも、のびのびと発言して問題意識を提起するには、スピード感も必要だ。すべての国を相手に交渉する国際舞台では、好むと好まざるとに関わらず即断即決が求められる。そのテンポがなければ、マルチ外交の場で日本の存在が忘れ去られてしまいかねない」

お国訛りは大切

 心配することのひとつに、日本人の英語力がある。
 「私も日本人だし、秋田県人。お国訛りがあって構わないと思います。いまは自分のアイデンティティーを発揮する時代。むしろ訛りがないほうが、無国籍のアイデンティティーになってしまう。中国や韓国の人はこのところ英語力がとみに発達していますが、決して日本人より格段にうまいわけではない。でも彼らは気後れすることなく、のびのびと発言していますよ」
 お国訛りを大切にし、アイデンティティーを生かしながらの国際舞台での活躍に、秋田県人らしさを発揮することはあったのだろうか。
 「私は、自分をボクサーに例えるならば、ノックアウト・パンチを持たない凡庸なボクサーだと思います。パンチはないけれど、ジャブを繰り返す。繰り返して繰り返して闘っていると相手に少しずつ効いてきて、気がつくと相手の方が先に倒れていることがある。そんな粘り強さは、秋田県人らしいのだと思いますよ」
 なかでも自然とのかかわりに、アジア人、日本人、そして秋田県人の精神が宿っていると語る。
 「エドモンド・ヒラリーは、世界最高峰のエベレストにネパール人シェルパのテンジン・ノルゲイとともに世界で初めて登頂した。その時ヒラリーは、エベレストを征服したと叫んだが、テンジンはその場にひざまずいて、山に祈りを捧げたといいます。自然への畏敬の念を、アジアの人は持っている。そういう精神や文化、伝統、歴史を大切にしていくべきです」

古里に思い巡らす

 世界を駆けめぐり、国内を行き来する日々にも秋田での暮らしを懐かしむ。
 「山で育ちましたからね。アケビを見つけた時の喜びや、キノコ採りのうれしさやスリルは忘れられない。綿あめを食べながら出店をひやかして歩いた子供時代の祭りには、いまも胸ときめかせるものがありますね。西馬音内の盆踊りを見ましたが、どんなモダンなファッションよりも端縫いの着物と踊りは美しく、豊かな文化だと思いましたよ」
 国際舞台にあっても、そんな“お国自慢”を披露する。
 「これからはイノベーション(革新)と伝統がいろいろなところでぶつかり合う時代。我々の中にある伝統、文化、歴史との調和をそれぞれの心の中で図って、近代史や現代史を学んだ上で、各国との関係を築いていく。そんな人材がいま求められているんです」

(2008.6 Vol70 掲載)

あかし・やすし
1931年大館市(旧比内町)生まれ。旧制秋田中学、旧制山形高校を経て東京大学卒業後、フルブライト奨学金によりバージニア大学大学院、フレッチャースクールなどに留学、57年日本人初の国連職員となる。国連日本政府代表部大使、広報担当・軍縮担当事務次長、国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)・旧ユーゴスラビア問題担当事務総長特別代表、事務総長特別顧問、人道問題担当事務次長などを歴任。97年国連退任。現在、スリランカ平和構築及び復旧・復興担当日本政府代表、ジョイセフ(家族計画国際協力財団)会長、立命館大学大学院・国際教養大学客員教授など。著書に『国際連合−軌跡と展望』(岩波新書)『平和への架け橋』(講談社)『サムライと英語』(角川書店、共著)『戦争と平和の谷間で』(岩波書店)などがある