Masamichi Amano 天野 正道さん
   作曲家

「まず、人間であれ」という少年時代の教えをバックボーンに、

音楽へのあこがれは社会という現場で、花を咲かせていった。
 子どものころは機械いじりに夢中の、そんな普通の男の子だったが、ある時期、精神を触発されてグンと伸びた時期があった。それは秋田大学附属中学校時代のことだ。

 ゼロから創り出す

 当時の音楽担任だった羽川正(まさし)先生は即興で楽器演奏をさせたり、グループで作曲させたり、指導要項には載っていないこともやって、音楽の楽しさを教えてくれた。音楽を聴くこと、演奏することは楽しい。もともと音楽好きではあったが、自分の中に眠っていたものが呼び覚まされる音楽の授業だった。
 そして、聴くことより、演奏する方がさらに楽しいとわかって、吹奏楽部に入り、トロンボーン、サキソホーン、フルートをやった。同級生も個性的な人物が多くいて、そんな中に交じって可能性が触発され、自分の中の音楽的要素が一気に吹き出してきた感じだった。3年生のころには、自分の発想で音楽をゼロから創ることはもっと楽しいと感じるようになった。
 秋田南高校に進んでも吹奏楽部を選んだが、ここでも人生の師・高橋紘一先生にめぐり会って、いよいよ音楽への志を強くした。作曲で身を立てようと決めたのは高校2年の時だった。


 思いついたら実行


 中学・高校時代は周囲から「変人」と言われていた。思いついたら、それを実行せずにはいられなくて、傍目には突拍子もないことをするヤツだと見られていた。小学生の時にアマチュア無線の免許を取って、電気のメカニックには自信があったから、「これがいい」と思ったら作らずにはいられなかった。自転車に蛍光灯を着けたら明るくて便利だと思い、ペダルを踏めば電気で蛍光灯がともるようにした。部活動を終えて暗い夜道をその蛍光灯自転車で帰ったが、遠くから見た人は青白い輪が宙に浮いて走ってくるので仰天したに違いない。おまわりさんに見つかって油を絞られたこともあった。
 現在は作曲・編曲、コンサート、演奏指導など、音楽に明け暮れているが、そんな私のバックボーンはやはり中学時代に培われた精神だと思う。「何よりも、まず、人間であれ」。3年生の時担任だった故・柴田勉(つとむ)先生は中学生にもわかりやすいように人間の生きざまを教えてくれた。音楽家である前に、作曲家である前に、まず、人間であれ、他人に誠実であれということを教わった。「君たちの一番の財産になるのは人間。だから、他人には誠実に、友達は大事にしろ」が、先生の口グセだった。


 コンピュータで合成


 国立音楽大学の大学院を卒業後、初めて依頼を受けたのは「原信夫とシャープス&フラッツ」結成20周年記念の曲だった。つづいて、FM東京の番組でクリスマスファンタジーという曲が初めて電波に乗った。同年、アグネス・チャンの編曲もやったが、以後、クラシック、ジャズ、ポップス、演歌、レコード界、テレビ、映画界を問わず、垣根の無い活動をしてきた。
 オーストラリアでコンピュータ・ミュージックを勉強したのが1982年だった。その頃、シンセサイザー(アナログ)をやっている人はいたが、コンピュータ(デジタル)・ミュージックをやっている人はいなかった。生の音楽の場合は演奏者に指示して音を出してもらうわけだが、思いどおりにはなかなかいかない。しかし、コンピュータなら時間さえかければ、納得いくまで思いどおりの音が出せるというのが利点だ。あのころ、コンピュータ・ミュージックをやりはじめた人たちは皆同じことを考えていたと思う。楽器は音を出すために作られたが、その音を電気合成して出すのがコンピュータ・ミュージックだ。生の音には生の良さがあって、コンピュータ・ミュージックが取って代わるということはないと思っていたが、現実にはドラマーなどが職を失うという現象が起こった。YMOなど、コンピュータ・ミュージックが席捲した時期はあったが、しかし、やはり本物は輝きを失うことはない。現実に最近は、生の音の良さが見直されてきている。
 私にとってコンピュータ・ミュージックは文章を書く時の文房具のようなもの。五線譜をワープロで書くのと同じ感覚でやっている。

 エネルギーを音に


 レコード会社や映画界、芸能界など、現場で仕事をするようになって、いろいろな人たちと出会った。スティービー・ワンダーや矢沢永吉、各界の異能の人たちとの出会いは、まさに刺激的だった。彼らと対等の立場で音を創り出すために、ひと言ひと言に神経を集中させて、創造のエネルギーを音に変えていかねばならない。それは、非常に厳しく苦しいことではあったが、そういう辛さの中で潜在していた力が触発されるということにも気がついた。
 「いい師に出会うこと」これも附属中学校時代に佐々木孝先生に教わった言葉だが、人生の師は、こうした現場の中にいて、しかも、それらの人々は多彩であった。

 ワルシャワフィルとの交流


 ワルシャワ・フィルハーモニック・オーケストラとの交流がはじまったのは、ちょうど、ベルリンの壁が崩壊した直後のことだった。アニメ映画『ジャイアント・ロボ』のサウンドトラックのオーケストラを探していて、レコーディングプロデューサーが「レベルが高くて仕事が早いワルシャワフィルはどうか」と打診したところ、意外なほど簡単に引き受けてくれた。物価の安い東欧で、しかも演奏レベルは超一流とくれば、この上ない好条件だった。以来、ワルシャワフィルでの仕事はレコーディングやコンサートを含めて私の主要部分を占めるようになった。現在は一年のうち半分はワルシャワ、半分は日本という割合で仕事をしている。
 歴史の古いカトリックの国なので、治安も悪くはないし、経済的には東京オリンピックのころの日本に似ている。これから発展していく時期だと思う。


 コソボ和平呼びかけて

 ワルシャワの音楽的環境は快適だったが、ある時、平穏な暮らしに、悲惨なニュースが連日もたらされるようになった。ポーランドに近接しているユーゴスラビアの自治州コソボで紛争が起きた。日本で言えば、秋田にいて岩手や青森で戦争が始まったようなものだ。ボスニアとヘルツェゴビナの争いが毎日、リアルに伝わってくる。ある時のテレビで、オーケストラの練習中に突然襲われ、命からがら逃げてきたという高校生のインタビューが放送された。彼は泣きながら「楽器を置いてきてしまったので、取りに帰りたい」と訴えていた。
 昨日まで一緒に勉強していた高校生たちが今日は敵・味方に分かれてしまう。子どもの目の前で親が殺されるということが、すぐ近くで起きている…。何とかこの争いを止めさせる方法はないものか…。音楽家は力はないけれど、人に呼びかけることはできる。それからはコンサートの度に「演奏している間だけでもいいから、平和への祈りを込めて聴いて下さい」とお願いした。その願いが通じたのか、数カ月後にコソボ紛争は解決に向かった。

 音楽の楽しさを伝える

 映画『バトルロワイアル』で、深作監督は「殺しあい」を描くことで裏に秘めた生命の尊さを表現したが、私はストレートに訴えたいタイプ。「無益な殺しあい、戦争はやめよう」というのが一番の願いだ。日本の社会環境は悪くなる一方なのに、平和ボケでそんなことにも慣れっこになってきている。そういう時に、音楽の力を借りて人に呼びかけることもできる。音楽は何ができるか、音楽家は何ができるか。近ごろも、「まず、人間であれ」という言葉の意味をつくづく実感している。
 秋田に帰って来た時は秋田南高校や新屋高校の吹奏楽部に指導にいっているが、音の出し方など、人に気持ち良く伝えるテクニックにはある程度の法則がある。そういう、人を基本にした教え方をすると子どもたちはピュアだから上達が早い。私の子も同じ年頃なので、みんな自分の子どもみたいなもの。多感な時期に、精神を呼び覚ます教えが大切なことは身をもって知っているから、「人を大事にしろ。人に迷惑をかけるな。人に誠実であれ」と、自分の子に言っていることと同じことを教えている。できるだけ多くの子どもたちに音楽の楽しさ、そして、人と出会うことのすばらしさを知ってほしいと思う。(談)

(2001.9 Vol30 掲載)

あまの まさみち

1957年1月26日秋田市生まれ。1980年国立音楽大学作曲科首席卒業、武岡賞受賞。1982年同大学院作曲専攻創作科首席修了。2000年第23回日本アカデミー賞音楽部門優秀賞受賞。2001年第24回日本アカデミー賞音楽部門優秀賞受賞。2000年第10回日本吹奏楽学会アカデミー賞受賞(作・編曲部門)。
日本音楽著作権協会(JASRAC)正会員、ISCM(国際現代音楽協会)会員、日本音楽舞踊会議員。

2001年11月にはアトリオンの音楽ホールにて、秋田の知人たちと一風変わった音楽会を企画している。