Naoki Arisaka 有坂 直樹さん 競輪選手

競輪は、人間が生身で争う格闘技。
GIでもFIでも、レースはいつも命懸けで、もがく。

そうして生きていくのが人間。

KEIRINグランプリ2006を最年長記録で獲得。
ことし三月にはダービーを制し、早くもグランプリ出場を決めた。
全国各地を転戦する厳しい競技生活を秋田の風景が包み込む。

出羽丘陵を走る

 秋田市と県南地域を結ぶ出羽グリーンロード(出羽丘陵広域農道)。出羽丘陵のゆるやかな起伏を走る農免道路はよく整備され、直線的なロードが続く。山あいの田畑、色づく木々、のどかな集落の風景が織りなすこの道を、自転車でよく走るという。
 「競走が空いたり、けが明けのときはロードで調整する。バンク練習は瞬発力が付くが、持久力を付けるにはロード練習が欠かせない。競輪は長い距離を走っても勝負は最後の六百メートルだから、地足が鍛えられていなければ無理。心肺機能を高めるというのもあるが、ひとりでゆっくり、疲れをとりながら調整できる。出羽グリーンロードは六十キロ近くあるからね」
 奥羽山脈を望む六郷自転車競技場のプレハブで、練習用自転車の前にしゃがみ込み、器具を持つ。バンク練習に合わせ、自転車を整備し始めた。
 競輪は一年を通して開催され、各地の競輪場で行われるレースを月に二〜三本転戦する。それを基準に個人練習、合同練習、海外合宿などのスケジュールを自分で組み立てる。雪が降る冬場は沖縄や海外で調整し、彼のもうひとつの拠点である茨城では合同練習に明け暮れる。秋田で家族と暮らすのは、一年のうち四カ月ほどだ。
 「秋田だけでなく違う場所で、違ったメンバーで練習するほうがマンネリがない。練習メニューは自分で決めますよ。自転車の整備も自分でする。俺にトレーナーは必要ない」
 昨年は競輪界最高峰のレース・KEIRINグランプリを三十七歳の最年長記録で制し、賞金王にも輝いた。ことしはすでにGT最高のダービーで優勝し、早くもグランプリ出場を決めている。
 「いま、風が吹いている」
 それを誰よりも感じている。

レースはいつも命懸け

 秋田で競輪は馴染みが薄い。自治体が開催する自転車競走において車券(勝者投票券)が販売され、結果を賭ける公営競技のひとつで、バンクと呼ばれるすり鉢状のコースを通常九人で四〜五周し、順位を争うスポーツである。競輪選手になるには日本競輪学校を卒業した後、選手として登録されなければならない。新人は二クラス制のA級からのスタートとなり、競走得点によって上位のS級を目指す。力があっても成績が悪ければ、強制的に首になる厳しい世界である。
 大仙市(旧大曲市)に生まれた有坂さんも、大曲農業高校時代に高校総体や国体で活躍した後、競輪学校に入学した。中野浩一選手が世界選手権で活躍するなど競輪が注目を集めたころだ。六十四期のなかでも期待されたが、椎間板ヘルニアの手術を受けるなど腰痛に悩み、経済的に苦労した時期もある。芽が出るまで長かったが、北日本地区に力のある選手が増え始めたなかで流れに乗った。二〇〇五年、川崎競輪場で行われたサマーナイトフェスティバルでGU初優勝を飾ったのが「抜けられるきっかけだった」
 「競輪選手を目指したのはバブルのころだったから、高収入も魅力だった。家が欲しい、いいクルマが欲しいって、それだけ。何かが欲しいから厳しい練習にも堪えられる。競輪選手は動機が不純なんだ」
 そう話すが、言葉の端々にストイックさがにじむ。
 「素質で飯が食えるのは二十代まで。努力しなければ超一流にはなれない。どんなときも練習さえしていれば、レースのなかで自然と体が反応してチャンスを生かせるんです。競輪というのは人間の生身のレース。相手の体調や心の状態を分析した上で駆け引きをして、ぶつかり合う。気を抜けばけがをするから、GP(KEIRINグランプリ)やGT(特別競輪)でもFT(S級シリーズ)でも同じように緊張するし、レースはいつも命懸け」

流れに乗った勝利

 レースは序盤のポジション争いから、ラインと呼ばれる二〜四人の連携で展開する。個人戦ではあるが団体戦的要素があり、戦法は選手の脚質で決まる。有坂さんはデビューからしばらくは自力型だったが、徐々に先行選手の後ろを走る追込に転向。練習方法も量より質に変わった。
 「脚質は年齢とともに、自分も知らないうちに変わっていく。自分は北日本選手の力が上がり、ちょうどいい時期に追込型になった。人の後ろに付いて、冷静にレース展開が見られるようになった。いい風が吹いて、それにうまく乗ることができたんだ」
 昨年末のグランプリ制覇は、その流れのなかにあった。
 「グランプリに乗れるのは競輪の歴史のなかで百人もいない。乗れただけで、うれしかった。グランプリに乗ったことのある選手はよく、その感動がやめられないと言う。競輪場に大勢の観客が揺れて、景色がよどんでいるように見えた。あのドキドキ感は、やっぱり忘れられない」
 グランプリ後、チャンピオンはオリジナルユニホームを着ることができる。三月のダービー制覇後、白いユニホームがさまになってきた。

練習にメリハリつける

 六郷自転車競技場は、バンクから奥羽山脈が見える。
 「軽く三十周してきます」
 そう言って、すり鉢状のコースを周回した。まだ雪の残る山並みを背景に春の風を切る。
 トレーニングは午後も続くが、家に帰ればふたりの子どもが待っている。家族と一緒に過ごす時間と、家族と離れ、自分を追い込んで集中する時間。「メリハリがあって、いまの練習環境はとてもいい」という。
 「がむしゃらにやっても、やりすぎるということはない。若いころはそれによって下地ができるし、精神面が強くなる。いまは昔と違って体力は落ちているから、練習メニューをよく考えて、集中する。一日一日の時間の大切さを実感していますよ」
 デビューして十八年。ようやく吹いた風はまだやまない。

(2007.6 Vol64 掲載)



ありさか・なおき
1969年大仙市(旧大曲市)生まれ。県立大曲農業高校、日本競輪学校第64期卒業。89年初出走。2005年サマーナイトフェスティバル、06年KEIRINグランプリ、07年日本選手権競輪でタイトル獲得。06年賞金王(1億9,148万円)。大仙市在住