Akira Endo 遠藤 章さん 応用微生物学者

人の役に立つことをする。
自分を犠牲にしてでも、
そうして生きていくのが人間。

子どものころから思っていたことがある。「自然界には、不思議なことがたくさんある」
自然へのまなざしが、生涯を懸けた研究人生へと導いた。

 山に入ってはキノコ狩りや山菜採りに明け暮れ、アケビやブドウを摘み、木に登り、スキーで遊ぶ―。
 春夏秋冬、故郷の野山を駆け回り、家の農作業を手伝った日々から六十年余り。ひとりのやんちゃな少年は、三千万人が飲む薬を開発した。

自然に親しむ


 「私が生まれ育ったのは、だれもが助け合って生きていた時代。昔はたとえヒーローになったとしても、得た利益を喜んでみんなに還元する時代だった。生活は貧しくとも、いまよりも心は豊かだった」
 生家は旧東由利町(下郷村)の農家。かやぶき屋根の民家に土間があり、いろりがあり、農業を営む祖父母と両親、六人兄妹が暮らしていた。ここで教わったのは、山野や小川で遊ぶ楽しさと農作業の手伝い、祖父と野山を歩いての山菜採りやキノコ採り。山に入ればアケビやブドウを摘んで味わい、冬はスキーを楽しんだ。
 「ハエトリシメジはハエを殺す毒を持っているが、みそ汁にすると人間はおいしく食べられる。麹づくりには麹菌というカビが必要だが、イネはカビの病気にかかると生産が激減してしまう。やっかいなカビと、役に立つカビ。自然界には、不思議なことがたくさんあるものだ」
 キノコを採ったり、麹づくりを手伝いながら、そんなことに興味を抱いた子どもだった。

人のためになることを

 「父は農業に熱心。母はまじめでひたむきな人。人づきあいはあまりうまくなかったが、三十軒ほどの集落で一番の働き者。朝起きてから寝るまで、ずっと働いていた」
 故郷について話すことは、両親の姿を語ることでもある。
 「言葉で細かいことは言わないが、働く姿を見ていれば親の思いはひしひしと伝わってくる。貧しかったけれど、ひたむきな思いがあった」
 大人を手こずらせたやんちゃな少年時代を経て、地元の定時制高校から秋田市立高校へ。父の影響で明治の農村指導者・石川理紀之助にあこがれ、農業技師になろうと東北大学農学部へ進んだ。
 「子どもは親の後ろ姿を見て育つもの。昔の親は、自分で食べるものを我慢して食べさせ、子どもに託した。いまの親とは伝える力が違う。私が秋田で過ごしたのは、そんな親の姿を見た子どものころの十七年。でもこの十七年間で、私の人生の骨格が決まったようなもの」
 そして何よりも、故郷で学んだことがあるという。それは『人のためになることをする』ことだ。
 「子どものころから『親を大事にしなさい』『人に親切にしなさい』『物を大事にしなさい』、そして『人のためになることをしなさい』と言われて育った。自分を犠牲にしてでも、そうやって生きていくのが人間。それを教えてくれた時代だった」

微生物の研究へ

 東北大学農学部では、農業生産に欠かせない農薬と肥料の製造や利用に関心を持った。勉強するうちに興味の対象は、微生物に。子どものころ親しんだカビやキノコなどを、医薬や農薬、発酵食品の製造に利用する研究をしたいと思うようになる。
 それに拍車をかけたのが、アレクサンダー・フレミングの伝記との出合いだった。世界初の抗生物質・ペニシリンを青カビから発見した科学者である。
 「子どものころにあこがれた野口英世と、フレミング。どちらも貧しい農家の出身で、境遇が自分と重なった。何千万人もの人を救う“人の役に立つ科学”が、大きな励みになった」
 そんな思いから、大学卒業後は医薬・農薬を製造販売する三共に入社。食品製造に用いるカビやキノコの酵素の研究の後、アメリカに留学する。そして、アメリカでは年間数十万人もの人が心臓病で死亡していること、コレステロール値を下げるのに有効な薬がないことを知る。それが、コレステロール低下薬の開発に懸ける人生の始まりだった。

青カビから新薬発見へ

 当時、コレステロール値を下げるには食事からの摂取を抑えることだけが注目され、体内での合成を抑える薬はなかった。
 「カビとキノコのなかには、他の微生物を攻撃する武器としてコレステロール合成阻害物質をつくるものがいるに違いない」
 そう予想した研究着手から二年後の一九七三年、約六千種類もの菌類の試験からコレステロール値を低下させるコンパクチンを生産する青カビを発見。その薬効と安全性が確認されてから、商品化するまでにはさらに紆余曲折があった。ライバルの登場、特許の問題、会社との確執…。さらに実験用ラットのコレステロール値が下がらず、その事実は世界の研究者を敵に回すことにもなった。
 「誰も成し得ていないことをするのは、未踏峰の山を登るようなもの。困難と苦労はあるが、私には、いばらの道を乗り越える信念と精神力がある。どんなに批判されても、自分が納得できなければ駄目。やらないで負けるより、誠心誠意努力して負けた方がいい。人間の成長というのは、そういうところにある。くぐり抜けてこそ、心は広くなる」

百カ国以上で製品化

 コンパクチンはラットのコレステロール値は下げないが、血中コレステロール値の高い動物や患者には効く可能性はあった。
 「言葉では言い表せないが、長い間研究をしていれば、直感というか臭覚というか、“真実”をかぎ取ることがある。その時に、強い信念が働く。そうやって自分が信じた道を突き進むことを支えてくれたのは、子どものころに培った精神力や、ねばり強さだったと思う」
 青カビからコンパクチンを精製後、臨床試験が認められ、製品となるまで約十五年。コレステロール低下薬「スタチン」として百カ国以上で製品化され、現在、心臓病や脳卒中の予防に世界で三千万人もの人が飲む薬になった。
 昨年八月には、微生物の調査で世界自然遺産・白神山地の核心部に足を踏み入れた。川原にテントを張り、一夜を過ごした。
 「行けども行けども、そこはブナの森。ブナの木は優しいねぇ。木はまっすぐで、肌も優しい、葉も優しい。差し込む日光も優しい」
 そう言って、目を細める。
 「一人前になったら、故郷に恩返しするのは当然のこと。これからも人の役に立つ微生物を見つけたい」
 科学者としての気骨と優しさが伝わってきた。

(2007.4 Vol63 掲載)



えんどう・あきら
1933年由利本荘市(旧東由利町)生まれ。57年東北大学農学部卒業、三共入社。66年農学博士。66〜68年ニューヨークのアインシュタイン医科大学留学。三共発酵研究所研究室長、東京農工大農学部教授などを経て、同大学名誉教授、バイオファーム研究所代表取締役所長。著書に『自然からの贈り物─史上最大の新薬誕生』(メディカルレビュー社)、『新薬スタチンの発見─コレステロールに挑む』(岩波書店)。農芸化学賞、ウィーランド賞、東レ科学技術賞、アルパート賞、日本国際賞、マスリー賞などを受賞。秋田県名誉県民