Yasuyuki Kasori 加曽利 康之さん
音楽プロデューサー・エレクトーンプレーヤー
 エレクトーンは小学生のころからやっていた。音楽好きだった母親は仙台の教室にまで通わせてくれたが、本人は練習が嫌でしょうがなかったという。おとなしく座って、教本通りに弾くのが嫌で、家に帰ればほかで聞いた映画音楽やポップスをウロ覚えで弾いていた。本人は「反抗期だった」というが、子どものころからクリエーティブなものへの願望が強かったといえる。エレクトーンを弾きはじめて30年近くなる。一時期は離れたこともあったが、エレクトーンは今も自分を支える「ベストパートナー」だという。

オーケストラの音を再現

 エレクトーンといえば、たいていの人はウエディングマーチやポップスを連想するが、現在のエレクトーンは一人でオーケストラ曲が弾けるところまで進化している。ホルンなどの管楽器、ティンパニーやパーカッション、ドラムなどの打楽器、琴や尺八などの和楽器まで、主な楽器の音が組み込まれており、どんな演奏も可能だ。「しくみはシンセサイザーと同じなんです。ただ、エレクトーンには三段の鍵盤があって、両手両足を使って、リアルタイムで生演奏するというのが特長です。ジャズやロックだけでなく、クラシックも、やわらかな人間的な音まで出せます。エレクトーンがここまでやれる、というのはあまり世間には知られていないですね」
 ラスト・エンペラーやスターウォーズのテーマ曲もエレクトーン一台で一人で弾けるところまで進化している。長年、エレクトーンを弾いてきた者として、現在のエレクトーンの姿を知ってほしいという願いが強い。
 加曽利さんの活動は多岐に渡っているが、中でもプレーヤーとしての評価が高く、エレクトーン曲の作曲と編曲、演奏者としての公演のほか、全国10カ所の教室のレッスン指導も行っている。多忙を極めるスケジュールだが、これからは特に映画や舞台に関わる仕事、エンターテインメントの音楽制作にも関わっていきたいという。


自分に合う波長を

 音楽でやっていこうと決めたのは大学時代だった。そのころからすでにテレビ番組のテーマ曲やメディア関係の音楽を手がけている。
 「映画やミュージカルなどの歌や踊りにトータルで関わっていくのはすごく楽しいし、自分の音楽の系譜というものを持てる気がします」
 大学在学中の3年間で各メディアから依頼される仕事を一つ一つ仕上げて、着実に力を蓄積。卒業した年にはエレクトーンの新機種キャンペーンにのって演奏者として華々しいスタートを切った。以来、作曲家・演奏者として十数年が過ぎた。
 故郷秋田での仕事は1982年(昭和57年)に田沢湖町で開かれた冬季国体開会式の演奏が思い出深い。スポーツイベントといえば、1997年に長野で開かれたフリースタイルスキー世界選手権(プレオリンピック)の大会テーマ曲も作曲した。モーグルのフリースタイルはエアーの瞬間が見どころだ。選手が宙を飛ぶ瞬間に合わせて流れるキーボードの生のサウンドは会場の雰囲気をよりドラマチックなものにした。スキー競技では初めての試みだそうだが、サウンドが流れる瞬間、選手と観衆が一体となって宙に飛ぶような、そんな幸せな気持ちになったという。
 「私はいい意味で柔軟だと思います。何でもやってみて、自分に合う波長をつかみたいという思いがありますから、先入観にとらわれず、極力何でもやるようにしています」
 2001年に秋田で行われるワールドゲームズ秋田大会のイメージソングも作曲した。
 「秋田の人から頼まれる仕事には格別な思い入れがありますね。地元出身ということで、声をかけてくれるのでしょうが、素直にうれしいと思います」
 ワールドゲームズ秋田大会のイメージソングは太陽のような明るさをイメージして老若男女に口ずさんでもらえるよう70年代のポップスの香りを含んだメロディに仕上げた。ヴォーカルの歌詞や歌手は未定だが、歌手の持ち味によってダンサブルなビートにもなる曲だ。

エンターテインメントとして

 エレクトーンを弾きはじめてから30年近くになる。レパートリーもクラシックからポップス、映画音楽までと幅広い。
 「現在の自分を冷静に見て、自分を支えているのはプレーヤーとしての加曽利康之だと思う。子どものころから演奏してきたし、エレクトーンは自分を表現できるベストパートナーです。でも、自分の音楽をやるという意味でもっと、もっと先に進みたいと思う」
 エンターテインメントの音楽プロデュースに向けて、まずは(セルフ)コンサートのプロデュースを考えているという。(セルフ)コンサートは東京と秋田で年に1回行っているが、まずは自分のコンサートをトータルでプロデュースしてみたいという。会場の設定や規模、照明、スタッフプレーヤーの選定までやって成功させて、ほかのアーティストのプロデュースにつなげていければと考えている。
 プロデュースの成否は「こういうコンサートをやりたい」とプランを打ち出した時に、それを理解して、あるいは間違いを指摘して、具体的に表現してくれるスタッフやプレーヤーで決まる。いかに優れた人材を起用できるかである。いい人材に巡りあって、自分をつくり、それが、映画や舞台の音楽プロデュースにまで発展できたら、というのが願望だ。
 「まずは自分のコンサートを人の助けを借りながら、トータルなものとしてつくっていく、というのが今の一番の目標です」
 長年のベストパートナーであるエレクトーンからさらに自分の世界を広げていきたいという。


大都会の夜景の中に

 全国を股にかけた活躍で多忙を極めているが、そんな忙しい合間を見てはファッションの情報誌を見てストレス解消をする。ビジュアル的なファッションショーが好きで、ファッションへの興味も強い。ふらっと入った洋品店で衝動買いをしてしまうこともしばしばだ。ショッピングでストレスを解消しているきらいがあると苦笑する。
 音楽で生きてゆくためには東京にいなければと思って上京したが、故郷秋田での生活より、東京暮らしの方が長くなった。
 「今までは、自分は地方の人間だという思いが強かったけど、東京暮らしの方が長くなって、東京は自分の本拠地という思いが強くなりましたね」
 とっておきのストレス解消はホテルライフである。仕事が重なり、部屋の整理まで手が回らなくなると、お気に入りのホテルに一時避難をする。
 「ホテルは自分にとっての隠れ部屋ですね。ゆっくり構想を練ったり、英気を養う場所かな。暮れゆくビルの街を眺めていると、東京の醍醐味というものが感じられる。眼下の夜景なんか見ていると東京は大都会だなと実感させられます。自分は少しばかり東京でエレクトーンをやってきたといっても、だれでも知っているわけではない。これから、ガンバルぞっ!そんな気になるんです」
 自分にとって一番リラックスできるものは何か、ショーの鑑賞ツアーやショッピングなど、いろいろアンテナを張り巡らしてきたが、ストレスがない状態というものが少しずつわかってきた。
 月1回、ヤマハ秋田店でレッスン指導をしているが、秋田空港に着くと「帰ってきた」という思いがするという。自分のルーツを感じる時のやすらぎにはしみじみとしたものがある。もはや東京が第2の故郷になったが、秋田とのつながりはこれからも大事にしていきたいという。

(2000.7 Vol24 掲載)

かそり・やすゆき
秋田市生まれ。小学1年の時からエレクトーンを習う。秋田高校卒業後、上京。大学在学中からテレビ番組の音楽を担当するなどメディア関係に関わり、卒業後も秋田市制100周年記念等、TV、CF、式典の音楽制作を含め多岐に渡り活動、エレクトーンプレーヤーの第一人者でもある。また、キーボードユニットFUNKY FOXの活躍でも知られ、これまで3枚のアルバムをリリース。1997年にはフリースタイルスキー世界選手権の大会テーマ曲を作曲。昨年は2001年WG秋田大会のイメージソングも作曲した。