役者も人間だから、自分の感情があり、
すべてはそこから出発する。
俳優である前に一人の人間、市民としての姿勢を
きちんと持っていたい。


 アカシアの花が満開となり甘い香りが小坂町に流れる中、映画『アカシアの町』の撮影は快調に進んだ。加藤さんが演じるのは父親の介護をするために高校を退職した先生の役だ。その先生がかつての教え子と再会する場所も花を栽培する畑だ。
「いい季節の秋田を体験できたと思います。県北を訪れるのは、これで二度目ですが、こちらに来るとホッとしますね。東京では毎日忙しくしているので、喧騒を離れて、このゆったりした空気の中にいると、ずっとこの町で暮らしているような、そんな安らぎを感じます。鹿角市や小坂町の皆さんにも良くしていただいて有難いと思います。撮影が長くなると、役者もスタッフも早く東京に帰りたいと思うものですが、今回はだれもそんなことは言わない。皆、秋田の空気が気にいっているようです」。
 かつて華やかだった鉱山の町も廃鉱とともに灯が消えたようになってしまった。しかし、そんな中にあっても若者たちは元気だ。音楽バンドを組んで、一つのイベントを企画する。都会からUターンしてきたヒロインもまじえて、それぞれの事情を抱えながらも地元で一生懸命に生きているバンドの仲間たち。映画『アカシアの町』は経済優先の時代に忘れられがちな人間の心を、ふるさとを愛し模索しながら生きていく若者たちを通して描いている。
 映画のロケは鹿角市や小坂町内の各所で行われ、アカシア並木・明治の香り漂う康楽館、郷愁を誘う素朴な町役場・小坂線の停車場などを紹介している。鉱山跡地でのコンサートシーンには四百人もの町民がエキストラ出演した。町の人たちも「どんな映画ができるんだろうか」と、楽しみにしているようだ。


  印象深い『人間の条件』

 加藤さんが俳優座養成所の門を叩いたのは大学4年の時だった。以来、演劇人生も40年近くになる。この世界での最初の仕事は1962年のテレビ『人間の条件』だった。『人間の条件』は第二次大戦中の旧満州・旧ソ連を舞台にした五味川純平の長編小説が原作である。人間の極限でのあり様を混乱のまっただ中で体験していく青年。主人公の梶は加藤さんにとって非常に印象深い役だった。
「ちょうど『アカシアの雨』という歌が大流行の年でした。60年安保の激しい波が退いた虚無の中で人間とは何か、戦争とは何か。戦後の日本人が一度はじっくり考えなければならないテーマを据えた作品でした」。
 『人間の条件』という作品があったから、その後の加藤剛の役が決まってきたという。


  大岡に憧れる面も

 演劇に「自分の進む道」を感じるようになったのは高校時代であった。もともとは運動部員で、演劇には無縁だったが、先輩に学園祭の芝居を手伝ってくれといわれたのがはじまりだった。役者と裏方が一体になってひとつの舞台をつくるという創造的な仕事に関心を持つようになった。進学は迷わず大学の演劇科に決めた。学生劇団の舞台を踏むうちに、役者になろうと決意。俳優座の門を叩くことになる。
 以来、舞台、映画、テレビで活躍するが、特にテレビの『大岡越前』はシリーズがはじまって以来30年という長寿番組である。加藤剛さんといえば大岡越前をすぐに思い浮かべる人が多いだろう。大岡越前は歴史上の人物だが、史実とは別に、自分たちの司法官・行政官、そして裁判はこうあってほしいという庶民の願いが込められ語り継がれてきたのが「大岡政談」などの語りもの。「テレビ『大岡越前』もいわばその電化路線です」と笑う。加藤さん自身も劇中の大岡越前に憧れている部分があるという。
「役者も人間、自分の肉体・感情が熱を帯びた『主原料』となります、ここが出発点。これをまだ見えてこない『役』の魂とこね合わせ、練ったりたたいたりして、新しい『一人』を荒削りに造型していく。役と自分は何回もクロスしたり離れたりしますがふと気づくと並んで坐ってお茶を飲んでいたりするのが『役』です。まるで義兄弟のようにね」。
 加藤さんが演じるのは正義の味方、あるいは悲劇の主人公など、どれも「カッコいい」役が多い。ひと時でもカッコいい人物になって、ヒーローが演じられるのは凡人にとってはうらやましいことだと思うが、加藤さんは「人間はみんな役者だ」という。人間は誰しも他人に変身したいという願望があり、芝居を演じる部分がある。
 「シェイクスピアのように『世界は舞台』というなら、私達俳優の仕事は『劇中劇』ということになりますかね。これは楽しそうだ」と朗らかそのもの。


  忠敬の人生を学ぶ

 『アカシアの町』の撮影が終わると、次は東京・新国立劇場12月(1999年)の舞台『伊能忠敬物語』が待っている。伊能忠敬は日本初の詳細な実測日本地図をつくった人物である。加藤さんは伊能忠敬を演じるにあたり、出身地の千葉県佐原市を訪れた。
 伊能忠敬は薪炭や米穀を扱う商店の婿であった。50歳を過ぎた時、家督を息子に譲り、江戸に出て、天文学や測量の勉強に励んだ。そして、幕府の支援で「御用旗」を掲げながら諸藩を回り、70歳を過ぎるまで実測して歩いた。
「死ぬまで歩いて地図を作っていたということを知って驚きました。人生五十年の江戸時代ですよ。現代人が考えるような『余生』の感覚はまったくないんです。人生二山どころか三山も四山もどんどん越えた。伊能さんは死ぬまで熱い思いを持って生きていたんですね。最後まで積極的に生きて、晩年に大輪の花を咲かせる生き方ができたら素晴らしい」
 全国を回り、一歩一歩確かめて測量して歩いた伊能忠敬。加藤さんは彼が記した旅中の日記も野帳(フィールド・ノート)も見てみたが、絵入りで実に細かく記録されていて、伊能忠敬の勤勉な性格が感じられたという。細かく、日々のことを記すのと、地図の詳細さは彼の生活態度の一貫性。家長としての責務を果たした時、彼の二つめの人生がはじまったのだろうか。

  昨日の自分がライバル

 加藤さんは以前から生涯現役、最後の最後まで演じていたいと思っていたが、伊能忠敬の生き方はその思いに火をつけたという。
「最後まで自分らしく輝いていたい。そのためには昨日より、今日はさらにいきいきと生きればいい。昨日の自分がライバルなんです」。
 現在、舞台の準備と並行して映画『伊能忠敬物語』の製作も同時進行している。伊能忠敬が歩いたように四季の風景の中で一年がかりで撮影が進められるという。


  一人の市民として判断

 仕事のためにも健康維持には気をつけているが、俳優である前に一人の人間、市民としての姿勢をきちんと持っていたいという。市民としての考え方が、ステージワークをふくめて俳優の仕事全般の判断基準になる。世の中のこと、社会で問題になっている事など、新聞や本、雑誌にも目を通し、人と語り、自分は社会の中でどう生きていくかという地平を確かめながら行きたいという。
「文明のスピードの急流に文化が足をすくわれそうな現代です。人間が正真正銘自分の背骨を頼りにしなければならないのが新世紀でしょう。これから生まれてくる「市民」のためにも大いにガンバリどころ。この点、伊能さんの後ろ姿は大いに頼りになりますね」。
 仕事で家をあけることが多いので、オフの日は家族と一緒にいるようにしているという。趣味は庭いじり。生まれ育った静岡の家でも草花や果物の木を豊富に植えていて、子供の頃から草花を世話するのが好きだった。今も暇があれば日がな一日庭にいることが多いという。
「草花は手をかけるとそれに応えて花を咲かせてくれる。本当に土をいじっていると心がやすまりますね」。
 夫として、父として、また一市民加藤剛として庭いじりを楽しむひと時は貴重だ。
 役者はどんな役を演じていても、その人物像には自身の人格が出てしまう。衣装はつけていても、実は裸で勝負していると感じることがあるという。自分という人間を極限まで考える、自分との闘いである。しかし、闘えば闘うほど、この道には終わりがないことがわかった。
「生涯が自分との闘いだと。自分でこの道を選んだのだから腹をくくっています」。
 生涯現役の役者でいたい、余生はいらない、そして市民として、人間としても生涯現役でいたいという。さわやかな笑顔には変わらぬ若々しさがあった。

(1999.9 Vol.20 掲載)


かとう・ごう
1938年、静岡県生まれ。舞台『白痴』『コルチャック先生』『夜明け前』、映画『砂の器』『忍ぶ川』『ハラスのいた日々』、テレビ『人間の条件』『大岡越前』『風と雲と虹と』などに主演。俳優座創立55周年の記念事業として制作した映画『アカシアの町』(監督・森川時久)出演のために小坂町に滞在。『アカシアの町』は25周年の時に制作した『若者たち』の現代版で、夢破れて故郷に帰ってきた女性と地元でバンド活動を続ける若者たちを中心に、鉱山の繁栄や歴史を織り込みながら「故郷と人間の再生」をテーマに描いている。