Kuhachiro Koarashi 小嵐 九八郎さん
   歌人・作家

少年の頃、北の町には人のぬくもりや汗、
涙がじかに肌に伝わる暮らしがあった。
山も川も海も、自然の息吹は、あの頃、体にしっかりと刻みこまれていた。
今、人間を描こうとする時、かつての北の町の暮らしがいつも心に浮かぶという。

 「こんな都会でも探せば小さな自然があちこちにあるんですよ」
 日本の復興を支えてきた京浜工業地帯のまっただ中、川崎市川崎区に小嵐さんの自宅がある。家のそばを走る電車はかつては工場専用の引き込み線だったという。その線路の両側の公園には花木にまじって何種類かの野草も自生している。一周1kmほどのこの遊歩道は小嵐さんの毎日の散歩コースである。今朝、歩道脇から摘んできたばかりだというノビル(野蒜)と石蕗が食卓の手篭に盛られていた。「摘んできた野草はお父さんが自分で料理するんですよ」と妻の紘子さんがいう(夫妻の野草料理は共著『川崎山王町小嵐家の台所』青樹社刊に詳しい)。
 居間の窓からは庭の草花が春の陽を浴びてそよいでいるのが見える。どこの家庭にもあるなごやかな風景だ。心おだやかに日々を過ごしているこの家の主人がかつては学生運動の活動家として名を馳せた人とはだれが想像できようか。


  振り返ると妻がいた

 作家の中で、自分ほど学生運動しか知らない人間はいないのかも知れないという。学生時代から40代過ぎまで、その大半を活動に注いでいたことになるが、しかし、それも1989年の「ベルリンの壁崩壊」で、維持し続けていた幻想が瓦解くした。夢が破れて、ふと気がつくと、病んでいる妻がいた。夫が不在の間、保母をしながら二人の子どもを育てていた気丈な妻だったが、その力も尽きようとしていた。
 妻の紘子さんは神奈川県立川崎高校の1年先輩である。出会いは小嵐さんが川崎高校に入学した日の対面式だった。新入生と2、3年生が向かいあって、挨拶をする式だったが、少々ませていた小嵐さんの関心は「ミス川高」に向けられていた。二重まぶたの目がくりくりした丸顔の少女だった。その憧れの少女は生徒会で活動していた。高校1年生になったばかりの少年はその少女に近づきたい一心で自らも生徒会に入り、大変な思いをしながらも彼女のそばにいて片腕として活躍した。しかし、いかに彼女に尽くしても、1つ年下の少年は彼女にとって「弟」のようにしか見えなかった。少年がやっとの思いでデートを申し込んでも、彼女は弟の頼みを聞いてくれるように気楽に応じていた。
 ミス川高を狙っているライバルは大勢いたが、彼らを何なく蹴落とせても、肝心の彼女が少年の方を向いてくれなかった。二人の関係は「姉と弟」以上には発展しないまま彼女は卒業を迎えて就職し、やがて少年も大学に進学した。

  熱烈な恋文攻撃を開始

 そして、大学で彼は学生運動に没頭していったが、やはり彼女のことは忘れることができなかった。紘子さんの一家は中国からの引き揚げ者だった。終戦間際、現地で商事会社の支店長をしていた父は中国に残り、一家を日本に帰したが、後を追って届いたのは父の自殺の知らせだった。一家の主人を失って母と姉弟は離散し、彼女は親戚の家を転々とする悲惨な暮らしをしていた。しかし、それでも明るく気なげに生きている紘子さんは少年の目にはまぶしい存在だった。高校を卒業した紘子さんは働きながら、夜間の専門学校に通い、保母になっていた。何の苦労もせずにぬくぬくとしている自分に比べて、彼女は貧しさにも負けず生きていた。少年の幼い恋心はいつしか確信を持った大人の愛に変わっていた。
 小嵐さんは熱烈なラブレター攻撃を開始した。「会おう」という彼の強引な誘いで再び二人のデートが始まったという。


  活動家から小説家に

 それから3年後、二人は結婚した。しかし、結婚生活は最初から波乱万丈であった。活動家の夫は拠点を転々とする潜伏生活で家にいることがなく、紘子さんは保母の仕事を続けながら子どもたちを育てていた。そうして夫が何度となく刑務所入りを繰り返している間に、紘子さんの精神は次第に疲れていった。
 自分が理想を追っている間に最愛の人を傷つけていたことに気がつき、がく然とした。「彼女のそばにいてあげたい」それには何か仕事を見つけなければ…取りあえずできることは文章を書くことであった。
 機関誌などの文章は書き慣れていたが、小説はまったく初めての挑戦だった。何点か書きためて出版社に原稿を持ち込む日々が続いた。食うために劇画の原作も試みた。そして、昭和61年、『小説クラブ』7月号で作家デビューを果たす。以後、『流浪期』『巨魚伝説』『清十郎』『鉄塔の泣く街』など、42冊を執筆している。
 これまでの小嵐さんの生き方を見ていると、当然、作品にもその主義主張が込められていると想像しがちになるが、自分の分身は極力入れないように努力しているという。
 「筆が未熟なので、自分の影が出てしまうが、むしろ、そうしたものが無いように書かなくてはならないと思っている。ただ、自分の書いたものによって、人間にはいろいろな生き方があるということを知ってもらえればいいという気持ちはありますね」
 人間は誠実に生きた方がいい、世の中が変わっても、人間は変わらず誠実に生きた方がいい…さまざまな人間との関わりを経て、現在は『荘子』に共感を見出しているという。


  宇宙的自然と過ごす幸せ

 急激な変化を続ける現代にあって、人間のあり様を考えるには刑務所での五年間は貴重な時間だったという。四方を壁に囲まれた生活は心を落ち着かせて読書三昧に耽ける時間になった。『聖書』や『荘子』を読むうち、孫子や荘子というアジアの先人たちの言葉の意味を深く考えるようになり、そうした日々の心の軌跡は妻への手紙、会いたくても会えない切なさをこめた恋文として綴られていった。
 どんなに下手な文章でも、誤りがあっても、素朴な思いや心のひだが伝わる手紙はもらえば嬉しいもの、そう思うから手紙を書くことは楽しい。だから、手紙を書くことが楽しくもなく嬉しくもない人は手紙を書かないことだという。文字の間に、封筒の隙間に、いかに自分の思いを伝えるか、紘子さんへの恋文は小嵐さんの文章修業になった。一番の理解者であり、そして批判者でもある紘子さんへの恋文は高校時代に下駄箱にそっとしのばせたラブレター以来、段ボール箱5つ分にもなり、それは今でも大事に保存されているという。
 恋しい人へ宛てた自分の思い、それはまた、自分自身への問いかけでもあった。書き綴っていくうち内なる静寂の向こうに見えなかったものが見えてきた。
 人間の意志は万能であるという考え方がある。人間の意志や理性で何でも解決できるというのだが、しかし、『荘子』を読んで以来、アジア的な人間の考え方に自分の求めているものがあると思うようになった。
 「人間の理性なんて、全宇宙的に見れば、ごく些細なもの。宇宙的自然といっしょに過ごした方が幸せだという考え方に惹かれている」
 人間は宇宙自然の営みの中の一つであるということ。だから、「生」も「死」も同じことであり、死は再び自然に戻ることであり、それは安らぎが戻ることでもあるから、死を悲しむことはない、人間は生きたいように生きればいい、と。

  忘れられた土着性

 高度経済政策の時代、国民はまだまだ日本は伸びると信じていたが、日本の斜陽、沈没と言われて10年がたつ。国と地方の借金が増えて、特にこの3、4年は深刻になっている。こういう経済状態は国民を精神的にたくましくはさせるが、ただ、戦後史から見ると、日本人はあたたかさや、ぬくもり、土着性を忘れて功利主義に走り過ぎた。
 理性や科学万能の信仰に引き寄せられて精神的な貧しさが深刻になってきたと思う。暮らしのためとはいえ、利潤至上主義を科学信仰で実行すれば精神は貧しくなっていく。生産力さえ上がれば人間は幸せになれる、そんな幻想を抱いているが、何が人間にとって幸せなのか、その意味をあらためて考え直す時期ではないかという

  創作の芽を育む能代

 小学1年生の時まで暮らした能代。木材を運ぶ馬車や、米代川のゆたかな流れ、てっぺんのシャチに上ることを何度も夢見た能代七夕ねぶ流し。あの祭りを見ていると涙が出てしまう…今でも七夕祭には必ず行くようにしているという。そして、北風吹きすさぶ頃の能代の街もいい。北の街の赤ちょうちんでナタ漬やタラ鍋を味わいつつ盃を傾ける…こんな小さなやすらぎが大切なのだ…能代の山も川も海も、自然の息吹は少年の頃にしっかりと体に刻みこまれていた。
 これまで書いた作品の舞台は能代が最も多い。生まれ故郷能代の臥龍山を舞台にした『清十郎』は直木賞候補にもなった。清十郎とは荷役馬の名前で、能代七夕同様、この作品の柱を成すテーマである。少年の頃、能代の町ではまだ多くの荷役馬が飼われていた。清十郎は主人公一家の最大の労働力であり、家族とともに暮らし、家族の汗も涙も知っている馬であったが、車やトラクターなどの機械化時代の到来で消えていかねばならなかった。子どもの頃に体験した能代の生活から書いていくうちに次第に内容が広がりをもっていった。能代は小嵐さんにとっては創作の芽を育む畑でもあるのだ。
 人間としての根っこは能代の畑に下ろして、作家としての茎はいろいろな世界に延ばして花を咲かせている。今、書こうとしているのは消えゆくものの美しさ。打ち上げて一瞬のひと時を華やかに彩り、次の瞬間は消えていく花火。花火師には自分という存在を求めない潔さ、美学ともいえる潔さがある。現在、江戸時代の花火師玉屋を書き下ろしの最中だという。

(2001.5 Vol28 掲載)

こあらし・くはちろう
本名工藤永人。昭和19年、能代市生まれ。早稲田大学政経学部卒。小学校一年まで能代市で暮らした後、川崎市に住む。早大時代から学生運動の活動を四十歳過ぎまで続け、その間、通算で五年刑務所暮らしをおくる。昭和61年に小説家としてデビュー。平成7年「刑務所ものがたり」で吉川英治文学新人賞受賞。これまでの著作42冊。『風が呼んでいる』『清十郎』『鉄塔の泣く街』『おらホの選挙』は直木賞候補になる。現在、江戸時代東北のキリスト教宣教師と仏教僧の接点を扱った『本の窓』(小学館)、かつての活動をテーマにしたノンフィクション『蜂起には至らず新左翼死人列伝』を「本」(講談社)に連載中。歌人としても活躍。

ホームページ
http://www.shirakami.or.jp/~kazu/koarashi/index.html