タイトル

口の中に広がるモルトの風味、さわやかなホップの苦味。
酵母を一切濾過せずにつくった森の恵みたっぷりのビールは、
ひとりのマイスターの手から生まれた。


 「このタンクにあるのは、まだ若いビール。だいぶなじんではきたけれど、『おれはホップだ』『おれは麦だ』と、お互いがまだ主張している感じ」
 そう言ってグラスにそそいだのは、琥珀色した「あきた麦酒 恵」。原料は国内初の100%県内産。地ビールの「地」の意味にこだわり、秋田の大地の恵みだけを使って仕込んだ。
 「仕込みを始めて、まだ途中。いまは集中力が必要な時。泊まり込んで見ていないと、見きわめがなかなかつきません。どんなビールに仕上がるのか、先はまだ、読めないね」

地ビールを追求

 るり色の清流をたたえる玉川。流れを覆うように茂る原生林や岸壁の滝、急流などが自然美をつくり出す抱返り渓谷。
 その大自然のほど近くに位置する田沢湖ビールは、抱返り渓谷の源流・和賀山塊の伏流水で仕込み、無濾過酵母を使ったドイツ製法の地ビール。1997年の開業から12年、地ビールの「地」を追求したビール造りにこだわってきた。
 まろやかさとキレのある赤褐色のアルト、黄金色ですっきりとした味わいのケルシュ、深いコクと苦味が調和したダークラガー、芳醇なホップの香りとモルトの風味が楽しめるピルスナー。これらレギュラービールをはじめとした田沢湖ビールは、秋田の自然を映して醸される。
 特に「恵」の原料には、大潟村で育った大麦の自家製モルトに自家製ホップ、和賀山塊の伏流水、それに県内産桜天然酵母を使用。
 「これだけ限定された土地の原料を使ったビールは、世界でも、めずらしいはず」
 他のどの「地」にも負けない、本物の地ビール造りをしている自負がある。


世界各地を放浪


 ビール造りと出合うまで、「糸の切れたたことか鉄砲玉とか、そんな感じ」という時期が続いた。
 大学卒業後、自動車整備にあこがれて入った会社でのつらい営業職。グラフィックデザインを学ぼうと専門学校に入り、一時、デザイン会社に勤務していたこともある。レストランでアルバイトをしていた時には、バックパックで世界を放浪して帰った同僚が語る話にひかれ、アルバイトを休んで旅に出た。香港からフィリピン、タイ、ビルマ(現ミャンマー)、インド、ネパール、パキスタンなどをめぐって1年、イランでは革命に遭遇してパスポートを取られ、拘束された。
 「好奇心の方が勝っていたから、あまり恐怖は感じなかった。現地の人と同じ食べ物を食べて、見るもの聞くものすべてが楽しかった」
 そんな経験を下地として、結婚して戻った地元でホテルマンに。サービス業に従事しながら、ある時からビールに魅せられていく。

本場のビールに驚き


 勤務していたホテルは懐石料理とフランス料理を提供するため、アルコールは日本酒かワインを置いていた。ビールを飲むと満腹感でコース料理が止まることから、ビール提供は敬遠されていた。
 「料理を停滞させないビールはないものかと、世界中のビールを取り寄せました。そうして飲んだのが、カルチャーショックだった。ビールの色、味、香り。すべて日本とはまるで違うものなのだと驚きました。特にベルギービールには度肝を抜かれた。ビールって本当はこういうものだったのかと、目からうろこでした」
 興味のままにビールに関する資料を取り寄せ、文献を調べ、国内のビール工場を回り、市販されている醸造キットを手に入れて試した。室温が常に約20℃に管理されているホテルは、市販キットを使ったビール造りに最適な環境。趣味は徐々に高じていった。
 ビールの虜となっていた1993年、規制緩和でビール醸造の法令が変わった。本格的なビール造りが現実味を帯びたことが、ホテルマンからの転機となった。
 糸の切れたたこのように、自費でビールの本場、ドイツに渡った。

3リットル飲むうまさ


 言葉も分からないドイツでの研修は、ビール会社社長・アンガーマン氏の世話でかなった。醸造所での研修の合間には、ドイツ中を飲み歩いた。
 「ある地方に行った時、『なんで日本人がここに来るんだ?』と聞かれ、『ここのビールがおいしいと聞いたから』と答えました。すると『そんなことはどうでもいい。うまいのかまずいのか、とりあえず3リットル飲んでから決めてくれ』と言われた。まずいビールは、3リットルなんて絶対に飲めない。飲めば飲むほど、のどが渇いて飲みたくなるように造るのがビール。腹いっぱい料理を食べて、うまいビールを皆で歌って笑って、たくさん飲む。それがビールの楽しさなんだよね」
 行く先々で回ったビールパブは、夜だけの場所ではない。朝8時には店は開いているという。
 「パンやハム、ソーセージの片隅にビールがあって、老人が朝の時間をパブでまったりと過ごしている。ちびりちびりと、飲みながら。ああ、いいなぁって思う」
 そんなビール文化を体感して帰国した後も、ビールを造りたい一心で講習会などに参加した。わらび座が地ビール事業を立ち上げようとしていた1996年に入社。息つくひまもなく翌年7月に最初の仕込みを始め、9月に田沢湖ビールが開業した。

その日の気分で


 「アルトにはいいバランスがあって、ドイツ人にも『小松のアルトはエレガントに仕上がっているね』と言われました。ケルシュ、ダークラガー、ピルスナー、バイツェンなどをその日その時の体調や気分、好みや料理で選べば楽しみが広がるはず。地ビールは最終的にはラーメンと同じと思ってほしい。いろんなラーメン屋があって、それぞれに味噌、塩、しょう油などのラーメンがある。地ビールも各地にいろいろあって、その日によって選べる楽しみを感じてほしい」
 仕込みに追われるこの間も集中力が途切れない。ビールに打ち込み、酵母と向き合ってきた12年。趣味だったはずの油絵の筆も、いまはほとんど握っていない。
 「ビール造りは、農業のようなもの。農家だった親父はいつも、『手をかければかけるほど、いいものができる』と言っていた。ビールは私の手ではなく、実際は酵母が造っていて、人間はただ環境を整えてあげるだけ。だから焦ってもどうにもならない。問題が生じたら、じっくり、ひとつずつ手をかけて対処していく。米もビールも、自然を相手に状況を見ながら、じっくり向き合っていくことが大事なんです。そうして3リットル飲めるうまいビールが造れたら、いい」
 徹夜続きの目が、いたずらっぽくほほ笑んだ。

(2009.10 Vol78 掲載)
顔写真

こまつ・かつひさ
1955年大仙市(旧太田町)生まれ。大学工学部卒業後、秋田市立美術工芸専門学校卒業。自動車会社、デザイン会社、レストラン・アルバイトなどを経て、グランドパレス川端(大仙市)に勤務。ホテルマンとしてサービス業に従事するかたわら、ドイツ・パッサウ市の醸造所などで研修を修了。96年わらび座の地ビール事業立ち上げ時に入社、翌97年田沢湖ビールを開業。現在、田沢湖ビール工場長。大仙市在住