ジョエルタイトル

 「1枚の布に針と糸、指ぬき、そして糸切りばさみがあれば、どんな場所でもできるんですよ。なんにも威張らないし、散らからない。どんなときでも布に向かえば、心は自然と鎮まってきます。夫の帰りが遅いときも、無心になって手を動かしていれば腹も立ちません」
 一針一針、布に針目を刻むことは、家を大切に守ること。おなごとして生きること。暮らしの中にある願い、祈り、思いを込めて針目を刻む─。それが、刺し子。

刺し子はおなごの仕事
 例えば、細かな甲羅の形を布一面に渡す「親亀・子亀」。縦横の針目に糸を絡めて布を厚くすれば保温性が高まり、布のあたりが柔らかくなる。表の親亀を刺せば、裏は子亀。表と裏とで支え合う、幸せ。
 あるいは、着物の脇の下や膝など擦れやすいところに刺す「目籠刺し」。3つの針目を組んで補強すれば、布が鹿革のように滑らかに、そして温かく。糸を斜めに入れることで布が伸び、しなやかに動くようになるから、大工道具の鋭い刃物を包むときにも役に立つ。
 巾着には小判形が連なる「銭刺し」を。「桜亀甲」で春を祝いつつ娘の嫁ぐ日を想い、夏を迎えるころには「麻の葉」を刺す。刺した模様の中に「枡」の形をつくり、「米」の字を忍ばせて収穫を願う。
 「刺し子は季節の移り変わりとともに、夜な夜な小さな明かりの下で無心に刻まれてきた女の時間です。夫の仕事を思い、収穫への祈りを込めて刺す、おなごの仕事。うれしいときも、悲しいときも、1本の針を持って」

ばあちゃんの教え
 大館で生まれ育ち、子どものころから祖母・ミヨに手ほどきを受けていたから、針仕事は体で、手指で、いつの間にか覚えていった。
 「私は弟と年子で、母は病弱だったものですから、育ててくれたのはばあちゃんでした。針仕事は遊びの中で、そして祖母の膝の上で会話しながら教わりました。一寸四方の布があったら捨てるものじゃない、と。ほら、こんな風にして刺すといいもんだ、と。正座していた足を崩すと、2尺物差しでたたかれたりして、ね。昔の人というのは、30度とか60度といった幾何学的な角度のことなど知らなくても、ちゃんとできていました。祖母は田んぼのあぜに座って、蕗の葉っぱを畳みながら刺す角度を教えてくれたものです。布に製図を描かなくとも、布を畳んだり刺した針の目を数えたりして、数がそろったら止めを入れて」
 その存在の大きさに気づいたのは、祖母が72歳で亡くなってから。既に嫁いで家庭に入り、2番目の男の子が生まれたばかりだった近藤さんの心と体は、「空っぽになった」。
 「魚をさばくにしても、煮ようとしても、ばあちゃんに教わった言葉を思い出すんです。泣いてばかりの毎日を見かねて夫が、『そんなに想うんだったら、ばあちゃんから教わったことを形にしてみたら』と言ってくれました。それまでずっと針と糸をいじってきて、布との関わりが続いてきたのはばあちゃんのおかげでした。刺し方を思い出してみようと思ったのですが、記憶が定かでなくどうもうまくいかない。だったら、ばあちゃんと同じ年のころの人に教えを請いたいと思ったのです」

各地の上手を訪ね歩く
 30代になって2年間ほど、県内各地の針上手を訪ね歩いた。「あそこのおばあちゃんがいいのでは」「あの人の服に刺し子があった」などと教えてくれたのは、他ならぬ夫だった。仕事柄、よく各地を歩いていたことで自然に情報が集まっていった。
 「訪ねていっても、『人様に教えるなんてできねぇ』と断られたり、人目に付かないよう、裏口から入るように言われたこともありました。嫁には技を盗まれたくないからと、こっそり寝床で見せてくださったり。比内地域で刺された土瓶敷きは、古くなった布を何枚も重ねて、糸を放射状に渡して真ん中にぽっちりと玉を止めた麻の葉模様を無数に刺したものでした。でこぼこがあるから、熱いものでも置くことができるんですね。こうして刺すんだと教わるより、刺したものを夢中で見て記憶していきました。そうしていくうちに、用途によって模様刺しと地刺しとがあること、ばあちゃんに教わった銭刺しや目籠刺しは地刺しと呼ばれること、刺す順序を間違えると模様にならないことなどを知りました」
 そして徐々に、伝統的な刺し模様に変化を加え、独自に模様を考案するようになっていく。しかし、あくまでも伝統は崩さず、その応用形とした。「民藝刺し子」として伝統を継承しながら、新たな模様を生み出していく。模様に付けられた昔からの名前を大切にして、自らが新たな名前を付けることはない。
 「刺し子は、米という文字を入れたり、おめでたい柄を入れるなど家族の願いや祈りそのものでした。例えば『柿の葉刺し』は、4と5という数字で動いていきます。4段を5段で消して、死を消す。4段目で返すと、死を返して身を生かす。そういう祈りです。家族への思いに布と糸が応え合って針目に心が感じられるようになるのが、刺し子。ですから昔の人は、わざわざ刺し方を教えたり、ましてや技法を人にみせびらかしたりなどしなかった。長い時間を重ねて、暮らしの中で使われて、おなごの手から手へと伝わってきた『用』のある手仕事です。だから針目のひとつひとつが哀しくて、いとおしい」

花ふきんに祈りを込めて
 日本各地の刺し子にはそれぞれに特徴があり、娘の幸せを願って刺しため、娘が嫁ぐときに嫁入り道具のひとつとして持たせる「花ふきん」の風習があった。めでたい柄を刺した飾りぶきんの針目は、針仕事をするようになる娘への手本となり、受け継がれていく幸せの系譜。そんな花ふきんがつなぐ手仕事の縁で、これまで多くの出会いがあり、多くの幸せをいただいてきたと語りながら、たくさんの花ふきんを広げる。中指に銀色の指ぬきを付けた手指が、しなやかに舞う。
 「これは『七宝』を変形させて、水面に散った桜の花に見立てたものです。草生津川にたくさんの花びらが舞い散っているのを見て、それをどうしても刺してみたくて」
 春の情景が水の動きとともに目の前に漂ってくるかのような美しさ。当たり前の暮らしを見詰め、季節を眺め、日常の幸せを大切に生きる、たおやかさまで漂わせて。

(2014.6 vol106 掲載)
こんどう・ひろこ
1940年大館市生まれ。子どものころから祖母に手仕事を習い、主婦業の傍ら和裁や洋裁などを楽しむ。30代のころ「花ふきん」に出合って以来、県内各地の針上手を訪ね歩き、刺し方を見て覚える。以後、秋田に伝わる刺し子模様をもとにした「民藝刺し子」にいそしみ、これまで考案した模様は1,000種以上に及ぶ。伝統的技法を継承しながら独自の応用形を生み出す作品の数々は、雑誌「暮らしの手帖」(暮らしの手帖社)や季刊「銀花」(文化出版局、2010年廃刊)などでも取り上げられ、多くの人を魅了してきた。1983年さきがけカルチャースクール開講時に民藝部門の講師となり、現在もカルチャースクール専任講師。著書に『嫁入り道具の花ふきん』(暮らしの手帖)がある。秋田市在住