Tsutomu Konno 今野 勉さん
演出家・脚本家
人間の真実を探り、映像という芸術で、
テレビの時代を創ってきたリーダー的存在。
2001年、内なる故郷への思いは
新しいイメージを得て
ワールドゲームズ秋田大会で光彩を放つ。

 私がTBS(東京放送)に入社したのは民放が放映されてまだ4年しかたっていない時だった。テレビ界自体が草創期でだれもが無我夢中だった。それが入社5年目で芸術祭参加作品をつくれと言われて、先輩を差し置いて制作したものの、落選。同僚からも冷たい目で見られて悲哀をかこっていた。翌年、その作品『土曜と月曜の間』が思いがけずイタリア賞を受賞した。そうしたら、現金なものですぐに『七人の刑事』の演出に起用された。なぜ、日本で認められなかったものが外国で賞をとったのか。
 『土曜と月曜の間』は沖縄戦を舞台に、日本人が忘れ去っていた戦争、いわば戦争健忘症の状態だが、それを精神分析的に捉えたドラマだった。テーマとしては深いものがあったが、芸術祭の審査では、お茶の間ドラマの方がテレビ的だとされて、落選した。イタリア賞受賞は、お茶の間ドラマより日本人の内面を解き明かしてくれる作品の方が優れていると評価された結果だった。


  新聞記事を資料に

 もともと報道志望の私は取材して、調べて、推理・分析するのが好きだったし、ドラマをつくるにしても現実の資料を参考にすることを欠かさなかった。興味のある新聞記事は片っぱしから切り抜いて取っておいた。整理もしていないので、他人が見たら、ただの紙の山にしか見えないだろうけど、私の頭の中には大切な項目として入っている。好奇心につられて調べていくうちに謎や疑問が生じて、しつこく何年間も関連の資料を集めて、それが15年目にして番組に使われたものもあった。

  ユニオンを立ち上げ

 TBSではドラマ制作だけだったが、入社10年目に転機が訪れた。テレビマンユニオンの創設である。そもそもはディレクターやプロデューサーなど制作現場の人間が、非現場に回されるという人事異動が原因だった。それなら自分たちで制作会社をつくろうと、25人が一度に会社を辞めた。当時は相当な話題になったが、全員文学部出身で、経済は弱かったから「3カ月でつぶれる」と陰口をたたかれたものだ。
 我々は番組をつくりたくて会社を辞めたんだから、既成の会社づくりはしないことにした。会社の組織もクリエーティブにつくろうと。
 テレビマンユニオンで私が初めてつくったドキュメンタリーが『遠くへ行きたい』だった。TBS時代のドラマ制作ではテーマを映像で表現するという方法を身につけたが、ドキュメンタリーでは調査のプロセスそのものを記録していくというスタイルができていった。
 これまで『天皇の世紀』『真珠湾奇襲〜ルーズベルトは知っていたか』『岡田嘉子の失われた10年』などドラマと同じ数ほどたくさんのドキュメンタリーをつくってきた。また、両方の分野を融合してドキュメンタリー・ドラマの分野を開拓し、『欧州から愛をこめて』『こころの王国〜童謡詩人金子みすゞの世界』などの作品も忘れられない。

  門屋養安日記を読み解く

 このところ、何年も続けているのが、門屋養安という医者が35年の間に書き綴った日記を読むことだ。院内銀山の医者・門屋養安の日記には、鉱山の生活や藩役人の様子など、知られていなかったことが書かれている。何しろ、日記なので、人間関係も親切には描かれておらず、都合の悪いことは書いていない。その欠落した部分を推理して、私なりの仮説をたてていく。江戸時代の文章なので読むだけで2年かかって、欠落した部分を推測しながら、4年目に入っているところだ。
 この解読は、わらび座の創立50周年記念の戯曲制作を依頼されて始めたものだが、読み解いていくと、今までの鉱山に対する常識がくつがえされる場面が多々あって私の好奇心を刺激するには十分だった。


  知られざる日本の顔

 例えば、「坑内に桃の花が咲いた」という文があるが、これは坑内に桃の花を生けたということだ。つまり、生け花をしたということだ。「橋のそばで樋引きをした」という文もある。樋引きとは水をポンプで坑内から汲み上げることだが、橋のそばで樋引きをしてるから、外からも見物できるわけで、時には見物人のために赤フンドシと白い鉢巻きで水ポンプのショーをやっている。鉱山というと、悲惨なイメージがあるが、ずいぶん誤解されている面もあると思う。
 私も夕張で育ったから、鉱山の様子は知っていたが、夕張では女性が強かった。院内銀山でも、おかみさんたちが支配人をつかまえて、一緒に酒を飲もうと押しかけたりした。鉱夫たちを束ねる親方の奥さんたちだから姐御肌だったと思われる。芸人を呼んでショーを開いたり、鉱山の人たちもお茶や三味線の手習い、舞踊を楽しんで、芸術文化のレベルも高かった。私の育った炭鉱でも働く人々にはバイタリティーがあって、子供のころは天国のように楽しいところだと思っていた。


  秋田の土の魂表現

 戯曲を書くための資料調べを延々とやりながら、並行してプロデュースや脚本の仕事をしているが、長野五輪が終わって、しばらくは休養していた。五輪の演出のような、ああいう仕事は大変なエネルギーを必要とするので、終わると虚脱状態になって何もできない。だから、WG秋田大会の話をもう1年早く頼まれていたら、引き受けなかったと思う。
 WG秋田大会の開会式では1,000人〜2,000人規模のアトラクションをやろうと思っている。エネルギッシュな秋田の伝統芸能を活かして、優美さをどのようにメリハリをつけて演出するか、縄文的、土霊的な秋田の土の魂を「伝統・感動・躍動」のキーワードで表現したいと思う。
 長野の場合は山の芸能だったが、秋田の芸能は稲作に関するものが多い。土に生命をゆだねて、魂を育む、そんな縄文的、土霊的な秋田を考えている。

  仁井田の田園風景

 私が秋田に持っているイメージは子供のころに体験した故郷である。両親とも秋田の人間で、4歳の時まで秋田市に住んでいた。ボーッとしている子供だったから、4歳までのことは何も覚えてない。北海道に引っ越ししてから、祖母の家には度々遊びに来ていたので、そのころの仁井田の田園風景は今でも心に残っている。
 家の近くには小川が流れ、田んぼや畔道があって、メダカやアヒルがいた。村の中心の方に行くと、もう少し大きな川があって、夕方になると、農家の人が馬を洗っていたり、本当に素朴な生活風景だった。ほんの50年前のことだが、今はそんな風景はどこにも無くなってしまった。

  昔の風景の方が豊かだった

 夕張は、山また山で、炭鉱の子供たちと日がな一日山や谷、川で遊んでいた。高校時代は陸上(走り高跳び)と新聞部の部長もやっていて、ロクな受験勉強もしなかった。大学卒業後は新聞社に行こうか、テレビ局に行くか迷ったが、当時はテレビが始まったばかりで、テレビの方が面白そうだと思い、TBSに就職した。事実、テレビは発展途上にあってやりたいことをやらせてもらえた。
 ところが、現在、武蔵野美大で教えているが、映像学科の学生たちはコンピューターグラフィックスとか、映画をやりたいという学生たちばかりで、テレビに感動してという者がほとんどいない。テレビはもう魅力が無くなったようで、寂しさを感じている。
 ドラマやドキュメンタリーの取材でほぼ日本全国を訪れたが、感じることは日本のいい風景が少なくなってきているということ。西日本は古い文化財を残そうという動きがあるが、東京以北、東北や北海道は冬の非生産の時間が長く貧しかったせいか、そういうものを残す余力がなかったのか、町並みも全部新しいものに変わってしまった。残念だと思う。
 年齢のせいか、昔の風景の方が豊かに見えてしようがない。


  新しい秋田の発見

 WG秋田大会に関わることになったおかげで、秋田に来る機会も増えて、先日初めて「いとこ会」に出席した。40人位集まった中には、初めて会う人も10人ほどいて、あらためて自分のルーツを認識している。
 子守歌のように祖母が歌ってくれた秋田民謡、やわらかで心のぬくもりが伝わってくるような秋田弁。私の中の秋田と、そして新たに発見する秋田との融合に私自身もときめいている。(談)

(2000.11 Vol26 掲載)

こんの・つとむ
1936年、秋田市生まれ。4歳の時に北海道夕張市に移転。東北大を卒業後、TBSに入社。1970年に退社と同時にテレビマンユニオン創設に参加。1998年、長野冬季五輪の開・閉会式のプロデューサーとして会場演出・映像監督を担当。2001年WG秋田大会では開会式の総合プロデューサーを務める。武蔵野美大映像学科教授。テレビマンユニオン取締役相談役。