「小さいころからピアノという楽器に慣れ親しんでいると、ある経験がきっかけとなり曲となってぽろりとこぼれ落ちることがある。私はそれらの曲をひろい集めて、選び出してアルバムという形にする…(略)…」
ジャズピアニスト・河野 三紀が、四枚目のアルバムにこう書いてから四年の月日がたとうとしている。彼女は言う。
「曲は『作る』というより、『出来る』んです。自然に降ってくるようにして出来上がった曲を、ライブで弾いて発表する。それがたまってくると、だんだんアルバムが作りたくって仕方がなくなる…」
四枚目のアルバムをリリースした後、メロディーのなかに込めるものが変わってきたと彼女は言う。彼女のメロディーは、日常生活における思いの中から自然に紡ぎ出されていく。
音楽がこぼれ落ちる
「お盆に帰省する時、鈍行の列車を乗り継いで東京から秋田まで帰って来たことがあった。ゆっくり窓の景色を楽しんで、待ち時間を駅で過ごして。鈍行の列車に乗ると、人の顔、土地の顔が見えるのがいいわ」
明るい声で話し始めたのは、ジャズやピアノのことではなく、旅のことだった。
「疲れたけれど『いい旅をしたなぁ』って思ってるの。クセになりそう」
趣味は旅だけではない。ニュース番組や新聞で読む世界の情勢が気になる。株式にも興味津々。暇さえあれば水泳に通うほど、水の中で体を動かすのがとにかく好きだ。天気が良ければ電車に飛び乗り、緑いっぱいの自然のなかで羽を伸ばす。料理も好きで、自分のホームページで得意料理のレシピを公開するほどだ。
彼女には、そんな日常生活の中で「音楽がぽろりとこぼれ落ちる」瞬間があるという。“こぼれ落ちる”音楽を紡ぎ出すピアノは、幼いころからそばにあった。
ジャズとの出合い
音楽に興味を持ったのは、昨年七回忌を迎えた父の影響が大きい。クラシックが好きだった父は、娘をピアノやオーケストラのコンサートによく連れて行ってくれた。自宅にはレコードが「たんまりと」あった。
高校時代はカンツォーネに夢中になり、レコードを繰り返し聴いてピアノで弾いたり、文化祭ではミュージカルの作曲をした。友人たちが皆ビートルズに夢中になっていたころ、河野はひとり、情熱的なカンツォーネを口ずさむロマンチックな少女時代を過ごした。
「譜面ばかり見て弾くのは、だんだんつまらなくなっていました。もっと別の音楽があるんじゃないか」
そう思い始めた大学時代、いとこがある場所へ連れて行ってくれた。当時まだ少なかったジャズ喫茶。そこには、河野がそれまで一度も聴いたことのないジャズという音楽が流れていた。
「ジャズでは、ピアニストは自分の弾きたいように弾くんです。まさに“その人”の音。アドリブという即興が命の音楽は、私にとって衝撃でした。ジャズという音楽があるんだって、その時に初めて知ったんですよ」
七〇年安保で日本が混沌としていた時代、催涙弾が飛びかう大学近くに位置した真っ暗なジャズ喫茶で、河野は夢中になって新しい音楽にのめり込んでいった。
心に響く音楽を
「ジャズの魅力は、その人間が奏でる音楽だっていうこと。音と自分とが一対一で対峙(たいじ)して、自分の音が出せるのがジャズという音楽。初めて聴いた時、なんて自由な発想なんだろうと思った。こんなに自由に弾けたら、どんなにいいだろう、って」
気づいた時にはジャズに心酔し、大学卒業のころにはピアニストとして独り立ちしていた。しかしその後、生活の拠点を札幌から東京に移すべく上京、ピアノのレッスンを受けながら東京での活動を模索し始めた。ジャズ喫茶でのアルバイト、クラブやホテル、キャバレーでの演奏─。優れた音楽家と知り合ったり演奏する機会にも恵まれ、ライブに出演して修業を重ねた。
「ずっとピアノで食べているんですか?って聞かれるけれど、私には本当に、この道しかなかった。厳しい競争の世界だけど、音楽は競争じゃない、テクニックでもない。いくら技術があったとしても、聴く人の心に響かないと。音楽はその場限りで消えてしまうものだから」
自分の音を残す
音楽を通して知り合う人とは、会った時からすぐに打ち解けることができるという。ニューヨークに行っても、それは同じだ。そんな楽しい交流のなかで友人に聞かれたことがあった。「どうしてCDを作らないの?」
「作曲してライブで演奏できたとしても、音楽はすぐに消えてしまって残らない。若いころは自分の音に自信がなかったけれど、四十を超えたころから、自分で自分の奏でる音が好きになってきた。納得のできる音にやっと近づいてきたかなぁと、そろそろ音を残してもいいかなぁと、そう思って…」
アルバムリリースの話は着々と進み、一九九一年にはファーストアルバムをニューヨークでレコーディング。その後は、日本を代表するギタリストであり、サテライトレコードのオーナーでもある川崎
燎氏の協力を得るなどして計四枚のアルバムをリリースした。
「オリジナル曲がたまってくると、最高の状態で形にしたくなってくる。それは、自分の音とひたすら向き合うこと。とても大変な作業だけれど、一流の演奏家たちのサポートやアドバイスを受けて形にすることができました。馬子にも衣装、じゃないけどね」
特に川崎氏を共同プロデューサーに迎えてからは、ニューヨークのマスメディアを使ってアルバムを売り込む徹底した宣伝活動に触れた。腕のいい営業を雇っての積極的な売り込みに対し、ニューヨークのラジオや雑誌などのメディアが即座に動いてアルバムを批評する─。その反応に、これまでにない刺激と興奮を覚えたという。
米同時多発テロを境に
これまで発表したオリジナル曲は、失恋で傷ついた心を癒すような曲が多かった。それが、ある事件を境に曲想が変わった。アメリカ同時多発テロ。ジャズの街・ニューヨークは悲しみに暮れ、ニューヨークのシンボルであり、河野の四枚目のアルバム“アー・ユー・マリード”制作の際に撮影していた世界貿易センターは廃虚と化した。流れる映像に心を痛め、鎮魂の思いを込めて出来た曲が“September
11th”。また、現場を訪れた後に“The Ruins(廃虚)”という曲が生まれた。最近は、平和を祈る穏やかな曲が、活発な日常生活の中から“こぼれ落ちる”ことが多くなったという。それをまた、消えないように、自分の音として残すために、アルバムにしたいと考えている。
「さまざまな人との関わりや、その時の自分の中の漠然とした感情から曲は生まれる。アルバムは、私の心の日記のようなものなんです」
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