道のない山は誰も登ろうとしない日翳(ひかげ)山。しかし、どこかに心引かれるものがある。
だれも登らない山だから知りたい、登ってみたい。折り重なるように山が連なる会津で
山との新しい出合いを得たアルピニストは「やぶ山」と誇らしげに自分の山を言う。
 本格的な山は秋田大学一年の時に登った八甲田山が初めてだった。先輩から「青森の八甲田山にクルーを組むから、君もどうか」と言われたのがきっかけだった。行く前、足慣らしに太平山に登ったが、あいにくの土砂降りでさんざんな目に遭った。しかし、それにもかかわらず、しばらくすると「また行ってやろう」という気になった。そういう体験をした後で登った八甲田山は大変すばらしかった。晴れた時、曇りの時の山の深さ、激しさを感じて、「はまってしまった」わけである。以来、登山歴は四十年近くになる。

道のない山を登って一人前


 今、私がやっている登山は「やぶ山」である。やぶを漕いで行く山のことで、耳なれない言葉かもしれない。就職した会社の製作所が福島県会津若松市にあったので、登るとすれば会津の山々がフィールドになる。学生時代に秋田の山をほとんど登ったつもりでいたし、山は知っているつもりであったが、幾重にも折り重なって見える会津の山の深さには驚かされた。首都圏に近い割には原始の森や山容が保たれており、登山道のある山は稀で、ほとんどが道のない山であった。  道のない山は当然、沢を登っていくことになる。水線という地図上に水の流れを表している線があるが、水の流れを逆に辿って行くと、最後はやぶになる。おおむね三十分位はやぶを漕ぐことになるが、やぶといっても山頂近くのやぶは普通の人なら跳ね返されてしまうようなところが多い。そうやって最後に頂上に辿り着いて登頂の喜びをかみしめ、再び同じルートを降りてくる。そういう山を登っているうちに、「登山道だけを歩いているようでは一人前じゃないな」という気がしてきた。  実はこういうやぶ山にすんなり入れたのには、秋田で既に体験済みだったということもある。秋田で一番好きな山といえば太平山だが、大学時代の四年間に三十回登り、ほとんどの登山ルートは経験していた。太平山には一等三角点があり、ある意味では格の高い山だ。三十回という回数を自慢するわけではないが、いろいろな楽しみ方をさせてもらった。一番心に残っているのは阿仁合に下山した時のことだ。阿仁方面には四度下りたことがあるが、途中、道のないところを行くという場面がいくつか出てくる。素養というほどのものでもないが、この時にやぶ山というものがあることがわかった。

「いい山」は登らずにはいられない


 こうして、沢をつめて、やぶを漕いで登る山行は私にとっては楽しみというより「探検」みたいなものだ。「探検」とは『大興安嶺探検』(一九四二年探検隊報告・今西錦司編)に見られるように登山でもあり、植物・地質・動物等森羅万象の踏査・調査にも及ぶ。「探検」を重ねて「今西理論」が展開され、現在の社会はその影響を受けていると言っても過言ではない。やぶ山に入って行くと今西錦司博士や京都大学山岳部OBのことが頭に浮かび、やっていることを考えた時に「これは一種の探検なんだ」とすると説明がつく。  山行ペースは平均すれば月二回位。山容がすばらしかったり、地図を見たら名前も載ってないが「いいな」と思ったら登らずにはいられない。中には登れないで残す山があったりするが、その山を見る度にどうも気にかかる。そういう探検がひとつの記録として残っているのが福島県の県境稜線縦走。那須から吾妻連峰の三百三十kmの県境に三菱伸銅山岳部は挑戦して二十三年かかってやり遂げた。他から見ればずい分と常識はずれの山行だが、仲間たちがいてリレーしながらやったからできたことだと思う。この報告をおさめた三菱伸銅山岳部「ふみあと十号」は福島県の岳人から高い評価を受けている。

山と人の関わりに魅かれて

 朽ち果てた峠道などを行くと先人の踏み跡にいろいろと思いを巡らしてしまう。大学時代の阿仁のマタギ集落の思い出が強烈だったせいかもしれない。会津にもマタギがいて、そういう山人の暮らしぶりにまた山の魅力をおぼえる。  いわゆる名山といわれる山には歴史民俗的な由緒のある山が多い。磐梯山(一八一九m)も古くから神が鎮座する山「神南備(かんなび)」として知られている。私が福島県に来て、はじめて登った山もご多分に漏れず磐梯山であった。登山コースは七筋あるが、私の心を動かしたのは沢をつたって、やぶを漕いで行く直登コースであった。もちろん、これは一般のコースには入っていない。  長年あたためていた計画が実現したのは五年前のことだった。やぶを漕ぐこと二時間、雪型(麓の里では残雪の型を見て種蒔きの時期を占ったという)として有名な狐の形をした雪渓に辿りつく。ピッケルとアイゼンを使って慎重に雪渓を登ること一時間、さらにやぶを漕いで四十分後、山頂に辿りついた。農事の故事をもつ雪型を目のあたりに見るべく仲間二人と実現した探検であった。

ザイルのクッション  

 この思い出深い磐梯山にちなんで、昨年、光栄な話が持ち込まれた。徳仁親王、雅子妃殿下のお二人が磐梯山に登られる、ついては案内人として磐梯山の植物にお詳しい小荒井実先生、そしてもう一人の候補に私が推薦されたとのことであった。夢のような磐梯山登山が、計画通りに実行されたのは大変ありがたい事であった。  コースは猫魔八方台から登頂、昭和天皇が皇太子時代に往復された猪苗代スキー場に下山されるというものだったが、水場まで極めて綿密に検討されていた。県警、周辺の町村職員ら大勢が参加して三度の下見登山を行い八月二十日の行啓登山当日に臨んだ。  あれから一年が過ぎたが、今でも印象に残っているのは両殿下とお会いした時のことだ。猫魔八方台を出発する時、皇太子殿下ご夫妻が小荒井先生と私に近づいて来られ「本日の登山の案内を頼みます」と言われた。私はあがり性ではないが、原稿用紙一枚分のごあいさつを練習していたにもかかわらず、顔がこわばってくるのが自分でもわかって、半分しか申し上げることができなかった。何とも言えない不思議な力に圧倒されたという感じであった。  当日は濃いガスがたちこめて、あいにくの天気であったが、景色以外にも山の楽しみは多い。磐梯山山頂では大勢のマスコミが待ち受けていて取材に時間をとられたが、残った時間を楽しんでいただくために、まず、磐梯大明神に会津の地酒四合びん二本をお供えし、ザイルをたたんで徳仁親王殿下にクッションをつくってさしあげた。すると、殿下はその半分にしか座られず、残りの半分に雅子妃殿下がお座りになったのである。予期せぬことだった。仲睦まじいお姿を目のあたりにできるのは役得であった。

「揚幕」はすべての一期一会に


 帰路のことだった。登ってくるパーティーと出会い、そのうちの一人の女性が握手を求めてきたのである。すると、妃殿下はごく自然に手を差し出して握手に応じられた。外国ではよくあることなのだろうが、見知らぬ登山者とすっと握手される、その自然さに驚いた。  沼の平のお花畑でご夫妻は写真の撮り合いをされていたが、この時、殿下は妃殿下の重い方のカメラも背負っておられたのだとわかった。到着地のスキー場で殿下がウスノキの赤い実を小荒井先生から受けて口にされると、妃殿下も同じ実を探しておられた。このようなほほえましいお姿に接することができたのも山なればこそであろう。  七時間余の山行が終わり、麓のレストランに着くとお迎えの車が待っていた。「大変良い登山で楽しかったです」というお言葉を述べられて、殿下そして妃殿下が車に乗り込まれた。再び、両殿下にお会いする事もあるまい。遠ざかる車の列を見送りながら、能舞台でいう「揚幕」が下りるのを感じた。  両殿下のにこやかな表情、そして従者の方々、先々に回って警護した人々、沢山の人との出会いがあった。一期一会。あの日以来、山に登ると、磐梯山での「揚幕」はすべての一期一会にあるのではないかと、人生における出会いをしきりに思うようになった。(談)

 (1998.9 Vol.15 掲載)


もりさわ・けんじ
1940年、秋田市生まれ。秋田大学鉱山学部卒業後、三菱伸銅会津若松製作所に勤務。日本山岳会・南会津山の会・三菱伸銅山岳部所属。万治峠学会会員。1994年、会津の41座を歩いた紀行「山を訪ねて」を著わす。副題は会津の日向山・日翳山。道のある山(日向山)、道のない山(日翳山)、どれも等しく山の魅力にあふれているというやぶ山への思いも込めている。他に峠越えの歴史浪漫譚「嶝峠会津編」など。