Yutaka Morohoshi 諸星 裕さん 桜美林大学副学長

人間を一つの型にはめたがる年功序列社会への反発をバネに世界を股にかける人生を選んだ。しかし、生涯を秋田にいて先祖の墓を守り、親子・友人たちと地に足の着いた生活をおくる秋田の人たちを羨ましいと思う時もあるという。秋田の豊かさに、地元の人たちは気がついていないのではないかと…。

 私の人生に一番影響を与えたのは母です。人を肩書きで見たり分け隔てをしない、心の大きな女性でした。今でも覚えているのは小学生の頃に、家に押し売りが来た時のことです。普通の家なら、玄関払いのところを家にあげて、ごはんを食べさせて「あなた、いつまでもこんな事をしているんじゃ駄目よ。もっとまともな仕事をしなさい」とお説教して帰した。

日本を脱出したかった

 人物本位で人を見るということ。その人のやっていることで評価するということ。口先だけではなく、自分で実践して見せる人だった。そういう母の考えに影響されて、少年時代から自分の力で勝負できる方向へ進もうと思っていた。
 ところが、日本のような年功序列社会ではそういう実力主義はなかなか芽を出しにくい。高校に入学した直後に2年生に混じって予備校の模擬試験を受けたが、1,000人中の3番になっても1年生は1年生でしかない。「能力や個性など関係なく、一つの型に人間を押し込めることにどんな意味があるんだ。こんなところは早く脱出したい、独力で勝負できるところに行きたい」と、自分を待ち受けている社会に窮屈さを感じていた。


国と国とをつなぐ仕事を

 子どもの頃は007のジェームズ・ボンドやパールバックの「大地」に出てくる馬賊の親玉に憧れたものだった。国と国を股にかけて活躍したい、それなら外国に通用する大学ということで進学には国際基督教大学を選んだ。国際基督教大学ではフットボール部に所属し、日本人としてのモノの考え方、基本となる文化的な思想をしっかり養おうと思っていた。それから語学を身につけること。英語、スペイン語、ラテン語、スワヒリ語など4〜5カ国語を学んだ。
 卒業後は大学の研究室や社会人のフットボールクラブで一年ほど過ごしてアメリカに渡った。当時のアメリカはベトナム戦争のまっ最中で、行きたくはなかったが、第一候補のケンブリッジ大学(英国)の大学院は事前にある事がわかって行くのをやめてしまった。
 それはケンブリッジ大学の学部案内を見た時のことだった。母の前で「エーッ!」と大きな声を出して、その案内をポンと放り投げた。学部案内には「植民地管理学科」というのがあった。こんなことをやっている国のこんな大学には行くもんじゃない、という母の言葉ももっともだったので、それなら次はアメリカということで渡った。アメリカ・ユタ州のブリガムヤング大学の大学院で余暇学の修士課程を猛勉強して1年で卒業してしまった。その後はすぐ博士課程に進もうと思ったが、大学の先生が他のところも勉強した方がいいとアドバイスしてくれて、カナダの女子刑務所に特殊教育のディレクターとして赴任した。


遊びの中で人間形成

 ブリガムヤング大学の大学院で専攻した余暇学とは、余暇の過ごし方と人間形成の関わり、遊びが人間にもたらす影響を考える学問だ。犯罪者がどういう遊びをしていたかを分析することで、逆に遊びを使って人間の行動を変えることもできる。心理学的な分野だが、カナダの刑務所では矯正教育の一環として、このプレイ(レクリエーション)セラピーをやっていた。新しい服役者が入ってくると、彼女はどういう遊びをしていたか。話をしながら、育った環境や、罪を犯すに至った背景や心理を分析し診断するアセスメントを主にやっていた。アセスメントに対するトリートメント(治療)は心理療法チームによってファミリーセラピーが行われていた。

資格をつける教育

 日本の刑務所は「2度と刑務所には入りたくない」という辛い思いをさせる懲罰刑だが、欧米の刑務所は矯正教育が主流だ。犯罪者に課する刑の概念はあくまでもテンポラリー(一時的)なものだということ。5年、10年と刑務所に入っていても、社会に出てきた時は以前より少しでも社会に害のない存在になっているように、社会に貢献できるような人間にしなければならないという考え方だ。だから、刑務所の中でもどんどん資格を与えて、社会に出て独立して生活できるような手段を身につけさせる。刑務所といえども、待遇が良くてステーキだって食べられるし、1週間に一度は電話もかけられる。
 当時でも100人の服役者に対して矯正教育のスタッフが160人いたし、一人の服役者に要する経費は1日105ドル、それは当時の日本の大卒サラリーマンの1カ月分の給料にあたるが、長い目で見れば、それだけの経費をかけてもその方が安上がりという考え方だ。
 犯罪によって生じる警察費用・裁判費用・市民の被害は莫大なものだから、再犯する人間を一人でも減らしたいということだ。当時の服役者の再犯率はカナダの刑務所全体で83%だったが、私の担当する刑務所は80%だった。この3%の差は結構大きいし、もう30年以上も前のことだが、先進的なことをやっていたものだと思う。


イベント交渉で実績


 1977年、セントクラウド大学の助教授になった頃から国際交渉を依頼されるようになった。刑務所で耳にした俗語に自分なりの語彙を加えた英語はわかりやすかったのだろう。ネットワークを持った英語の流暢な日本人だと見込まれたのだと思う。世界が変わりはじめていることに気がついたのはあの頃だった。モントリオール五輪でNHKの放映権獲得交渉の通訳したのを皮きりに、以後は多くのスポーツイベントの交渉役を経験した。
 ミネソタ州立大学機構秋田校に赴任してきたのは1989年12月だった。東北に足を踏み入れたのは中学校の修学旅行以来で、日本のはずれというイメージしかなかったが、雄和町は東京から50分のところにある。水や酒、食べ物も美味しいし、秋田は思っていたより豊かだった。ところが、地元の人は若干コンプレックスを持っているようだった。
 「やる気のある人はみんな出て行って、自分たちは能力がなかったから秋田に残った」とか「田舎で、人口流出県で、将来も明るくない」などと言う人がいて、自虐的になっていると感じた。しかし、それは違うよと言いたい。


秋田発で海外に目を


 生まれてから死ぬまでずっと地元にいて、先祖の墓を守り、親子・友人に囲まれて暮らす、そういう地に足の着いた生活は羨ましいくらい豊かだと思う。ずっと秋田にいれば気がつかないかもしれないが、ミネソタ州立大学がなぜ秋田に来たか。
 ミネソタもかつては秋田のようにローテクな一地方だった。面積は日本の3分の2で、鉱山と農業が基幹産業という極めてローテクなところだったが、これをハイテクに変えた。北のはずれということはアメリカのノースコースト、北海岸だということに気がついた。今まで西海岸、東海岸経由でロンドン、東京に行っていたのが、直におつきあい出来るということだ。
 秋田にもあれだけの大きな空港があるのだから直に世界に行けるのに、目が仙台経由で東京の方にばかり向いている。それじゃ、秋田空港から直にアメリカに飛行機を飛ばそうという『21の翼』を皆さんと実現したが、もっと国際化しよう、スポーツでネットワークをつくろうという話が秋田を去る頃に持ち上がった。

WG秋田大会の成功へ

 1994年11月、上智大学教授の師岡文男氏(世界フライングディスク連盟理事)からの突然の電話だった。ワールドゲームズ秋田大会の招致を橋渡ししてほしいとのことだった。友人のスポーツドクター湊昭策さんに連絡したところ、「面白そうだ。秋田にはそういう元気なイベントが必要だ」と地元経済界の有力者らの賛同も得た。1995年、湊氏や秋田いすゞの御牧氏らと恒例にしている豪州ゴルフ旅行の折、話がはずんでケアンズのホテルからフローリック会長に電話することになった。フローリック会長とは面識はなかったが、話をしているうちに国際体操連盟の幹部ら大勢の共通の友人がいることがわかって、お互いに第一印象が良かったことが、以後の交渉によい結果をもたらしたと思う。
 しかし、招致が決定しても無理解な人もいて、その後の組織委員会のみなさんの苦労も並大抵のものではなかったと思う。しかし、それもみんな過ぎたこと。2001年8月16日の開会式ではそんな思いも彼方に消えて、感激も新たにした。26日の閉会式を無事迎えた時は「出来ちゃったぁ!」と、胸の中で叫んでいた。

ボランティアの意識根づく


 後日、ボランティアの皆さんたちとお会いする機会があり、全員がコメントを書いてくださって、とても嬉しかった。ワールドゲームズ秋田大会が成功したのもボランティアの皆さんによるところが大きいし、秋田の人たちがボランティアで国際大会に参加したということはとても良かったと思う。ボランティアというものは自分のためにやるものなのだから、そういう積極的な意識が根づいたのは収穫だったと思う。
 現在の一番の楽しみは夏と冬の年に2回、友人たちとゴルフ三昧の休暇を過ごすこと。ただ、これからの日本の大学経営の危機に備えて大学管理養成の仕事を立ち上げたばかりなので、忙しくなりそうだ。また、国際交渉に必要なネットワークのある日本人は少ないので、そういう場でも貢献していきたい。(談)

(2001.11 Vol31 掲載)

もろほし・ゆたか
1946年、神奈川県二宮町生まれ。国際基督教大学卒業後、渡米。ユタ州のブリガムヤング大学大学院にて余暇学を学び、カナダの女子刑務所、少年少女鑑別所で矯正教育のディレクターとして勤務。1976年ユタ大学で博士号を取得し、1977年からミネソタ州立セントクラウド大学の助教授(1984年に教授就任)、1989年から1994年までミネソタ州立大学機構秋田校学長。この後、秋田の経済人との縁で国際ワールドゲームズ協会との交渉を引き受け、WG2001大会の秋田招致に奔走、秋田開催決定に漕ぎつけた。現在は桜美林大学副学長のかたわら、テレビのコメンテーターとしても活躍中。