Ruriko Murayama 村山 留里子さん 美術作家

 天使は、色彩のなかに体がうずもれている。色相と同化した小鳥は、乱れ咲く花々のとらわれの身であることに甘んじている。もぎとられた羽根が空中でかすかに揺れて笑えば、光の断片から清らかな鈴なりの玉が涙のようにこぼれ落ちる。
 ちりばめられた狂気と殺気、毒気と色気。無数のビーズや造花、羽根、アクセサリーなどの素材は「奇麗」という名を得て共鳴し、息苦しいほどに密集された「塊」のなかでうごめく。
 作り手である村山 留里子の手を離れた瞬間から命を与えられたものたちは、独裁者が厳かな音楽を奏でるかのように、唯一無二の自分の存在を誇らしげに歌い始める─。

左は、化学染料で染めた絹布の断片をモザイクのように縫い継いで3×5mに仕上げ、壁一面を強烈な色彩で覆った。鮮烈に染めた色の組み合わせは無造作で即興的。その繰り返しは美しく、グロテスクでもあり、狂気を感じさせるほどの緊張感と圧迫感を持つ。(撮影/山本糾、場所/ユミコチバ アソシエイツ ビューイングルーム・ヨツヤ)

強くて美しい「塊」制作

 一粒一粒が痛々しいほどに美しく、おぞましいほどに厳かだ。ひしめき合う色は毒々しく、清らかで、その相対する「色彩」の狂騒は見る者の感覚を刺激する。しかし色彩に、実体はない。村山作品を取り巻くのは、視細胞を刺激して目に映り込む光の波長だ。
 昨年秋、服飾ブランド「コムデギャルソン」の依頼で制作した「奇麗の塊」は、日常のなかにあるきらきらと光る素材を幾重にも積み重ね、うもれさせ、息苦しさを感じさせるほどに密集させた作品群。直径20〜30センチで球体に近く、360度どこを天地にするか、どこを正面にするかは決めていない。自ら「強くて美しい塊」と表現する立体的な作品は、美しくもあり、またグロテスクでもある。
 「とにかく、すき間をうめていく。意志じゃないところで作っているから、コンセプトがあって、構図を決めてという作り方はしない。私の体が、ただ『作る』という役割を果たしているの。作るための体を提供して、私はその役割に徹底しているだけ。だから、意味はなくとも、作っている意識はしっかりある。自己はあるけど、それはどうでもいい。きれいであること、美しくて、潔癖であることががっちり合わさっていればいい」

左は「奇麗の塊」を布地にはり付けたビスチェは、2004年春の制作。大阪府立現代美術センターの花を題材にした企画展に出品した。今年は、奇麗の塊をドレスにすることを計画中
右は、2004年2〜4月六本木ヒルズ・森美術館の企画展「六本木クロッシング」出品作(高さ約1m)。すき間をうめるように素材を重ねた「奇麗の塊」シリーズが注目を集めている

周囲の速度振り切る

 日本の現代アートシーンで注目を集める。作品を発表すれば、常に批評の場にさらされる厳しい世界だ。
 「運と才能、体力、そして人脈が必要。そのどれが欠けても、いびつなものになってしまう。生まれ持った体力は人それぞれだから、その人のスケールに合わせた回路がある。自分はどの位置に行きたいか、自分の欲求はどのくらいなのかで体はできあがっていくものだから、常に自分のものを自分で壊さなければいけない。目標を持ってしまうと限界ができるから、怖がらずに壊していく。壊して作っていくうちに、純度の高いものができていく」
 村山 留里子の世界は、ややもすると理解しがたい。絵画や彫刻、染織、工芸とは違う。コンセプチュアルなアートでもない。だからといって、珍しいものに取り組んでいるわけではない。表現の媒体は、絹布であり、オブジェであり、その空間であり、色そのものだ。ただ、それがすべて非常に過剰で、密度の高い鮮烈な色彩と刺激にあふれている。「次は一体何を作るのか、何を見せてくれるのか?」。そんな期待をいつも裏切るのが、彼女らしい。
 「私が作るのは現代にタイムリーなものではない。だからこそ、周囲の速度を振り切りたい。批評とか評価の先を行けばいい。批評を待つのではなくて、振り切っていくの。目くらましでいこうかな」


色そのものを見せる

 秋田生まれ、秋田育ち。高校卒業後は地元の眼科医院に勤めたが、制作への欲求から二十二歳で上京した。
 東京での二十代の生活は波乱に富んでいた。演劇、音楽、映画などの関係者と交流を深めながら、アルバイトのかたわら独学で線画やろうけつ染めの染色画、舞台美術などを手がけ、自分の表現方法を模索した。
 そのなかでたどり着いたのが、色そのものを見せる染色した布の作品群だ。長い絹布を化学染料で染めて鮮烈に「自分の色」を出し、それを天井から吊り下げて、即興的に選んで切り裂いてはミシンで縫い、また切り裂いては無造作につなぎ合わせていく。染め上げ、縫い込んださまざまな「色」の大きさが気に入らなくなれば、さらに細かく切り刻み、色と色をつないで何度も縫い重ねていく。つぎはぎされた色は複雑化し、より過激で奇抜な色彩へと変ぼうして見る者の感覚を鋭く刺激する。かと思えば、透き通るように穏やかな一色の絹布をいくつも会場に吊り下げて、記憶を呼び覚ますような色との出合いを演出する。こういった布の作品やインスタレーションからなる個展は「色のおしえ」と名づけられ、1996年から98年にかけて主に都内のギャラリーで開催、村山作品のひとつのシリーズを作り上げた。


「奇麗の塊」の誕生

 その後、体調を崩したことがきっかけで拠点を秋田に移したのが転機になった。それまでも、制作は秋田市内の染織材料店の工房と自宅で行っていたが、東京から本格的に秋田に移ったことで制作に没頭できた。2001年のグループ展「オプ・トランス!」では、自身が「モザイク」と呼ぶ無数の色を細かく縫い合わせて一枚にした絹布の作品を制作した。縦3メートル、横5メートルにも及ぶこの大作の制作に精根を使い果たし、疲れた体を癒すように作り始めたのが「奇麗の塊」だった。
 ビーズやスパンコール、アクセサリー、羽根、天使やマリア像などのきらきらとした素材をホットボンドで土台に接着し、それを繰り返していく。小さなものから作り始めた「塊」は進化が速く、作るたびにめまぐるしく変わっていったという。
 制作の息抜きに何気なく始めた「塊」の作品群は02年ごろから注目を集め、03年にはプラダの依頼で布地を土台にしてバッグを制作。さらにコムデギャルソンの2004春夏コレクションには、村山作品をもとにしたデザインをプリントした花柄のスカートが新作として登場するなど、ファッション界でも熱い視線を浴びた。「色」を見せてきた絹布の作品群と違い、見る人が受け入れやすかった「奇麗の塊」がきっかけで、村山作品は現代アートシーンのなかで大きく動き出した。

「奇麗の塊」を構成する素材は、ビーズやスパンコール、造花、ブローチやネックレスなどのアクセサリー、天使やマリア像など、日常生活のなかで「きれい」と思ったモノたち。きらきらと光る素材やミニチュアが色彩のなかにうもれている

つかみ取った「命」

 「モノって、絶妙のタイミングで世に出たり、つぶされたりする。どれぐらいタイムラグをもたされるかは、人によって違うもの」
 昨年から勢いが衰えない現代アート界やファッション界での活躍にも冷静だ。そして、作品への執着はまるでない。「作品を作り上げた瞬間、終わってる。できあがった作品を見るのは、残骸を見ているようで苦痛なの」という。村山 留里子の手を離れ、「残骸」となった作品たちは、制作者から奪い、つかみ取った命で圧倒的な存在感を持つ。狂気や殺気、毒気や色気など刺激的な感覚とともに、喜びや悲しみ、慈しみ、はかなさ、美しさなどの感情や記憶を、色彩という光のなかにちりばめて歌い出す。

(2004.5 Vol46 掲載)

むらやま・るりこ
1968年秋田市生まれ。秋田商高卒業後、91年上京。96〜98年「色のおしえ」と題した個展を都内各所で開催。2000年ごろから秋田市に拠点を移し、01年グループ展「オプ・トランス!」(キリンプラザ大阪)、「奇麗の塊」(ナディフ)、03年グループ展「構成された布切れ」(神戸ファッション美術館)などに出品。昨年はコムデギャルソンやプラダとのコラボレーションが話題に。今年は2月六本木ヒルズ・森美術館、3月大阪府立現代美術センター、5月ボローニャ近代美術館などの企画展に出品。現在、フジテレビ番組「SMAP×SMAP」撮影用にミクストメディアを制作中