Mineo Nakajima 中嶋 嶺雄さん 国際社会学者・社会学博士 国際教養大学 理事長/学長

 国際教養大学の開学から1年。徹底した英語漬けの環境と
ユニークなカリキュラムをもうけたキャンパスは、 2度目の春を迎える。
激動の時代を生き、思想のうねりのなかを駆け抜けた半生を込めた教育への思いとは─。

 国際教養大学が全国初の公立大学法人として開学して一年。「授業はすべて英語で」「一年間の寮生活と海外留学を義務づけ」「全世界に公募した教員は大半が外国人」など、徹底した英語環境や前例のないユニークなカリキュラムが注目を集め、高倍率の受験を勝ち抜いた学生たちが全国から集まってきている。
 中嶋氏は「これまでになかった理想的な英語環境を実現した。TOEFL試験の平均点は入学時から比べて百点以上も上がるなど、徹底した英語教育の成果は予想以上」と話す。各国から集まった教授陣や留学生など国際色豊かなキャンパスで過ごす英語漬けの日々は、学生にとって厳しくも恵まれた環境だ。図書館は二十四時間開館、暫定入学制度の実施など「これまでにない大学づくり」を目指す意志は強く、国際舞台へ羽ばたこうとしている学生たちに注ぐまなざしは、温かい。
 そんな中嶋氏は「学問とは孤独なもの。不安にさいなまれながら突き詰めていくものだ」と語る。

白紙の上に線を引く

「新しい大学を日本につくりたい。東京につくってもあまり意味がない。地方だからこそできることがあるはず」
 カリフォルニア大学やオーストラリア国立大学など世界各国の大学で教壇に立ち、東京外国語大学長をはじめ数々の要職を歴任してきた中嶋氏が、秋田県で持ち上がった国際教養大学の学長を引き受けた。
 「これまでの経験から、既存の大学では『良い大学』にしようとする改革は難しいことが分かっていた。白紙の上に線を引くことから始め、思い切ったことをしたかった。これまでの集大成ですよ」
 大学長だけでなく文部科学省中央教育審議会委員などを兼務し、東京と秋田を常に往復する生活は多忙を極めている。会議が連続する分刻みのスケジュールの合間に、机上に積み上げられた書類に目を通し、取材を受け、原稿を書き、キャンパスを歩いては学生や教員たちに声をかける。その姿には、激動の時代を生き、過激な人間模様を見つめ、思想の激流のなかを駆け抜けた半生が醸し出す重みと温かみがある。

恵まれた幼少期

 生まれ育ったのは長野県松本市。城下町に十数代続く商家の一人息子で、美ヶ原高原の山並みや北アルプスの峰々を眺めて育った。九歳の年に敗戦、世の中の価値観が転換していくのを目の当たりにし、子ども心にも戦争に負けたことの重大さを受けとめたという。
 一方、父が開業した薬局は繁盛した。幼少期はスズキ・メソードとして知られる幼児音楽教育で鈴木鎭一氏にバイオリンを本格的に習い、絵を描き、陸上競技に励むなど何不自由ない時を過ごした。穂高連峰を描いたことがきっかけで山に魅せられ、山岳部にも籍を置いていた。文化の薫り高い松本での文化人との交流や、優れた教育者に恵まれたこと、俳句をたしなんでいた父からの影響も強く、人生のかけがえのない財産だという。ところが突然、思いも寄らない不幸に見舞われた。

逆境が人生を変えた

 家業が倒産したのは、高校一年の夏だった。
 「多感な時期に、見てはいけないものを見てしまった。善意と悪意、裏切り、心の醜さ…。世の中の裏表を知ってしまった」
 そう静かに振り返る。文化の日の夜更けに親子三人で裏木戸から屋敷を去り、土地、家、土蔵、書画骨とうや家財道具から、アルバイトで手に入れた電気蓄音機まですべてを失った。債権者会議では「どうか学校にだけは行かせてください」と頭を下げた。将来は地元で医師か薬剤師になると思っていた進路は、逆境によって理系から文系に転換し、社会の在り方に敏感で批判的な高校生 になっていた。
 「落ち込んだ時、もう駄目だと思ってはいけない。自己否定をしてはいけない。そこには新しい選択が生まれる」
 突然訪れた逆境が人生の裏表をあらわに見せ、芽生えた社会批判は世界の動きに目を向けさせた。高校から正課だったフランス語を生かして仏文学を志そうとも思ったが、社会への厳しい視線は戦後世界の変動に関心を向け、周恩来とネルーとの平和五原則外交や中国革命の成功に鼓舞されて東京外国語大学の中国科に入学。これは当時、珍しい進路選択だったという。しかし語学中心の講義に失望し、その先に見つけたのが高揚していく学生運動だった。中嶋氏は安保闘争の真っただ中へと身を投じ、自ら矢面に立っていった。


『現代中国論』出版

 安保闘争では思想の苦悩と真正面からぶつかった。安保敗北後は、リーダー格だった清水幾太郎を中心に結成された現代思想研究会に参じ、『現代思想』の編集を担当。研究会解散時の『現代思想』最終号には「自己の問題提起が仮説であることを認識する度量と吸収力を持ち、率直な反省が必要」と書いている。安保闘争は、中嶋氏にとって思想的な転換の最初のうねりだった。
 その後、東大大学院に入学するころから没頭したのが現代中国研究だった。熾烈化した中国とソ連のイデオロギー論争は、中ソ対立へと発展していた。『エコノミスト』や『思想』に中ソ論争や現代マルクス主義をめぐる論文を書き始めたが、そのなかで中国系イデオロギーやマルクス主義が自分の内部で崩壊、中国に強い批判を感じるようになった。そして一九六四年、最初の著書『現代中国論│イデオロギーと政治の内的考察』が青木書店から出版された。毛沢東思想を批判し、これまで自分が鼓舞されてきた革命中国の内実が問題だらけだったと分析した著書は多くの書評で好意的に取り上げられ、三十年以上にわたって版を重ねている。

「文革の真相」が反響

 若き日の中嶋氏に思想的な転換を決定的にもたらした出来事が二つある。中国の文化大革命、そして大学紛争だ。
 文化大革命が起きたのは、東京外大で大学教師の道を歩き始めた六六年の夏。「造反有理」を叫んで北京の天安門広場を埋めつくした紅衛兵は世界中を揺るがした。文革を「人間の魂にふれる革命」とたたえる風潮もあり、文化大革命とは何か、中国はどうなっていくのかを自分の目で確かめたいとの思いが強くなっていた。当時、国家公務員は共産圏への渡航が禁じられており、文部省から許可が下りなかったが単身、香港経由で文革の混乱の中へ飛び込んで行った。孫文生誕百周年記念大会での成り行きや壁新聞の内容などから「文革は権力闘争の大衆運動化」との視点が固まり、「毛沢東北京脱走の真相」と題した『中央公論』の論文は反響を呼んだ。
 一方、東京外大での大学紛争でも混乱の中に身を投じた。学生側と対決して入試を断行、半年近いバリケード封鎖が解除された時、研究室は水や油や火で荒らされていた。学生紛争とその渦中での人間模様はまた、心に深いつめ跡を残した。

大切なのはプロセス


 激動の時代に思想と向き合い、過激な人間模様を見つめながら、常にその渦中に身を投じてきた若き日々について、中嶋氏は静かに、ゆったりとした口調で話す。思想の転換を繰り返した半生から研究者へ、そして教育者へ│。社会と向き合い、ぶつかり合いながら、決して満たされることがなかったのが学問を志す上での環境だった。
 「学問とは孤独なもの。学問を突き詰めていくには、一人ひとりが豊かな人間性を持たなければならない。それにはプロセスが大切だ。キャンパスに良い環境があれば、学生は必ず伸びていく。塀も垣根もない大学にしたい」
 環境に恵まれた松本で過ごした幼少期から、どんな時も親しんできたのがバイオリンであり、絵画だった。それらは、思想のうねりのなかに身を投じていた時も、変わることなくかたわらにあったという。思想的なものだけでなく、芸術やスポーツなど半生を彩った一切が幾重にも重なって、言葉の一つひとつににじみ出てくる。

(2005.4 Vol51 掲載)

なかじま・みねお
1936年長野県松本市生まれ。東京大学大学院社会学研究科(国際関係論)修了、社会学博士。95〜01年東京外国語大学長、98〜01年国立大学協会副会長。オーストラリア国立大学、パリ政治学院、カリフォルニア大学サンディエゴ校大学院の客員教授を歴任。現在、アジア太平洋大学交流機構(UMAP)国際事務総長、文部科学省中央教育審議会委員(大学院部会長)、財団法人大学セミナー・ハウス理事長などを兼務。2003年度「正論大賞」受賞。04年から全国初の公立大学法人・国際教養大学の理事長・学長。著書は『現代中国論』『中ソ対立と現代』『北京烈烈』(サントリー学芸賞受賞)『国際関係論』『中国・台湾・香港』など多数