ガラス管を引き伸ばしたような、ピペットと呼ばれる計量器具を右手に持つ。
 それを小瓶の中に入れ、香料(香水の原料)を吸い上げ、ビーカーへ。
 花の甘い香り、果実の香り、森の中のすがすがしい香り、オリエンタルで神秘的な香り…。
 表現したい香りをイメージして、数種類の香料を配分を変えてブレンドする。スパティラ(かき混ぜ棒)で混ぜれば、オリジナルの香りが完成。いくつもの香料とその配分割合で、無数の香りが出来上がる。
 花々が咲く景色、森の爽快感、神秘的で厳かな雰囲気─。
 景色や空気感などのイメージが、「香り」によって具現化される瞬間だ。

答えがないのが香り

 例えば、バラの香り。ひと言で「バラ」と言っても、人がイメージするバラの花はさまざまだ。
 「白いバラ、赤いバラ、ミニバラ、大輪のバラ。野に咲くもの、庭に咲くもの…。人によって思い描くバラの種類はさまざまで、イメージする景色も香りもまるで違います。バラに近づけた『香り』をつくりたいなと思ったら、花の知識も必要。どんな花をどのような香りにしたいかをイメージして、それを言葉で表現することが大切。イメージの骨格がぼんやりしていると、香りにインパクトがなく、何を表現して伝えたいのかが分からない。言葉で表した景色や空気感などのイメージは、『香り』によって具現化していくものなんです」
 いくつもの香料を手に取りながら、ムエット(試香紙)で香りをかぎ、ピペットを使い調合する。さわやかさ、みずみずしさ、すがすがしさ、華やかさ。そんなイメージを表現する言葉をもとに、新たな香りが生まれていく。
 「答えがあってないのが『香り』。これでいいかなと思っても、違うアレンジを加えれば出来上がりがまるで違う。それがとても神秘的」
 うっとりとした表情で、そう話す。
 「香りには紀元前から、自分自身を高めるため、国力を誇示するために使われてきた歴史があります。宗教儀式として、防腐剤として、そしておしゃれとして。神がかり的な要素を持ちながら、人間が生きること、生活することに密着してきたのが『香り』なんです」

文学的で奥深い世界
 香りとの出合いは、1988年に結婚して上京し、専業主婦をしていたころ。ある日、新聞をめくって目に飛び込んできたのが、ピペットを手にした調香師の姿。「こんな仕事があるんだ」と憧れ、香料を調合する白衣の女性がまぶしく見えた。
 講座について問い合わせ、スクールで学び始めてからは図書館通いの日々。香りの基本から歴史に至るまでを学び、暇を見つけては香水売り場で香りをかぐなど少しずつ知識を身に付けていった。
 「さわやかさ、すがすがしさなどの語彙と季節感とで『香り』を実感できるようになったとき、おもしろい世界だな、と思いました。香りがこんなにも文学的で、奥の深い世界だったとは─」
 ツタンカーメン、シバの女王、クレオパトラ、楊貴妃、マリー・アントワネット、イエス・キリストなど歴史上の人物の逸話、ブランド香水誕生秘話やアロマテラピーなどにも触れ、いつの間にか香りの世界のとりこに。当時、自分のなかにはっきりと目覚め、開花していくものがあったことを覚えている。
 「人はなぜ、香りに魅せられるのか─。なかでも没薬や乳香は伝説的です。香りに魅せられ、それが欲しいがために戦争や交易をした歴史がある。それほどまでになぜ、香りに惹かれてしまうのか。そこには計り知れない人間の本能があるのかもしれません。でも本当は、単純に、香りが『心地よくなる』ものだったからとも思います。香りによって元気になる、幸せを感じる、リラックスする。いい香りをかげば発想が豊かになり、心も豊かな気分になる。人間と香りの関係は本質的で奥深いからこそ、魅了されるのかもしれません」

秋田の自然の香り
 香りを学ぶだけでなくインストラクターとしても研鑽の後、「香りラウンジ パレアンヌ」を98年2月に発足。宮殿を表す「パレス」と、好奇心旺盛な「赤毛のアン」や「1」を表す「アン」を組み合わせ、自分だけのオリジナルの世界観をつくり出せるよう思いを込めて名付けた。主に東京で活動後、ことし1月に帰郷。現在、香りの講座や講演、商品開発や香水インストラクター育成に力を注ぐ。秋田ではこれまで、さとくガーデン(角館町)のオリジナルルームコロン「香姫」や、「マタギの里の森の香り」(北秋田市)などを開発した。
 「秋田には秋田の『香り』があるのだと思います。地方の人にはその地方の自然の香りや、それが心に与えてきた影響があるはず。秋田で講座を開くと、海外ブランドの香水など重厚感ある市販品よりも、ほのかでナチュラルな香りが好まれます。それはきっと、この地方ならではのもの。いまはアロマテラピーや健康志向から、香りをほんのり重ねることで心と体が癒やされる効果を求めているのかもしれません。ほのかな香水やルームコロンなどを自分の生活に密着したアイテムとして、香りの世界を楽しんでもらえたらと思います」
 パレアンヌのショップは、華やかな香りやナチュラルな香りで満たされている。その時の気分や生活スタイルにより、好きな香りは変化していくものだという。
 「私はフローラルな香りが好き。オリエンタルで、ゴージャス系の香りが好きなときも、森の香りを思わせる知的なシプレータイプが好きだった時期もありました。いまは調合した香りよりも、成分としての香りにはまっていますが」
 忙しい1日のなかでも、香りをTPOで使い分ける。講座や講演会では、どんな香りをまとうのだろう?
 「人に会ったり、講演をするなど外向的になる時は、自分に自信を持たせるような力強さのある香りを付けます。1日のなかで香りを使い分けることで、心のバランスを保っているのかもしれません。普段から健康が取り柄の私ですが、意識して香りを使うことで、無意識のうちに脳が私の心と身体をコントロールしてくれているのではないかと思います」

記憶のなかに存在
 海外ブランド品として華やかなイメージのある香りだが、「本当は毎日、私たちは香りに包まれて暮らしている」と語る。
 朝、起きて歯を磨き、コーヒーの香りに包まれる。料理するときの野菜のにおい、魚が焼ける香ばしいにおい。雨のにおいに、遠くから吹き込む風のにおい。朝起きてから眠るまで、香りは身近な存在だ。
 「子どものころに感じたにおいは、記憶のなかにしっかりとあります。冬になると、木をくべてお風呂を炊くときのにおい、雪が降る前のにおい、つららが溶けるときのにおい。春になれば、桜が咲くころのにおい、森の中で葉っぱをちぎったときのにおい、おたまじゃくしのちょっと泥臭いにおい、甘い果実や稲わらのにおい…。においは、記憶のなかに消えることなく存在し、蓄積されていく。五感のひとつとして、人間的に奥行きをもたらしてくれるものだと思います。最終的に自分はどんな香りが好きになるのか、変化していく自分のことも素直に受け入れていきたい」
 自身が眠るとき、そっとつけるのはすずらん系の優しい香り。たくさんつけてもきつくなく、どこまでも穏やかな気分にしてくれる。それが「素」の自分に還るときの香りなのだという。
 記憶のなかにあるにおいと、自身がつくり出すオリジナルの香り。変化していく、日々の香り。
 多くの香りが解け合って、彼女の人生を彩っていく。
(2010.4 vol81 掲載)

顔写真
なかた・くにこ
1962年、潟上市生まれ。香りスクール卒業後、日本フレーバーフレグランス学院フレグランス専攻応用科修了。98年、香りラウンジ パレアンヌ発足後、東京と秋田を中心に香りの講座、セミナー、イベントなどで講演や指導を行うほか、オリジナルデザインの香りグッズを開発、販売。子どもの体験教室も実施。2010年4月、秋田市泉北に「パレアンヌ 香りスクール&ショップ」をオープン。日本フレグランス協会・講師、TOKIファッション工科専門学校・ファッションコーディネート科特別講師。潟上市在住
○パレアンヌ http://www.palais-anne.com/