衣桁に掛けられた白生地の浴衣に描かれていたのは、華やかで愛らしい牡丹の花。
 白生地を藍色に染めれば牡丹は白く染め抜かれ、夜空の下で花を咲かせる。
 夏の光を吸い込む藍、闇夜に紛れる深い藍─。
 夏には藍染めの浴衣がよく似合う。

衣装を語り継ぐ
 「襲(かさね)」
 白い紙にさらりとこの一文字を書いた。着物を日常の衣服としていた時代からまだ数十年。それでもこの言葉は、いまではもうなじみが薄い。
 「西馬音内の盆踊りといえば端縫い衣装が美しいといわれていますが、私が子どものころ耳にしていたのは『はぎ衣装』です。端縫いとはぎとでは、まるで違うんですよ」
 そう話して紙に長着(丈の長い着物)の絵を描く。
 「端縫いというのは布の端のほつれを防ぐために少し折り返して縫うこと。はぎとは2枚の布を接ぎ合わせること。このはぎ衣装の本来の姿は長着の『襲』です。ハレの装束だった十二単から歴史を受け継いで、上の衣と下の衣を重ねて着たのが『襲』。昔から女性は、その配色や調和に工夫を凝らしてきたの。だからね、それが変化した西馬音内盆踊りの『はぎ衣装』も、ここの部分とここの部分は同じ柄でなければならないんです」
 袖口、袖振り、おくみ、裾には同じ柄の布を使い、布の配置は左右対称にするのが本来の「はぎ衣装」。背の部分には絹を紅で無地に染めた紅絹や、赤地に染め抜きの絹地などを使ったという。
 西馬音内盆踊りではこのはぎ衣装のほか、くっきりと鮮やかに藍で染めた型染めの浴衣、絵羽に柄付けされた手絞りの藍染め浴衣が使われる。色彩や模様に苦心しながら、見栄えのするよう仕立てられた衣装の数々。華やかに息づくそれら衣装の歴史を支え、語り継ぐ女性である。

藍染め絞りの染織家
 祖父・柴田養助は西馬音内の元町長。父・政太郎は第1級の刀匠で俳人であり、謡曲や太鼓、篆刻、柔道、剣道などにも秀でていた。はし製造機を発明して特許を取り、工場を設けて全国はもちろん海外に売り出した人物でもある。彼女は明治、大正時代に芸術家・発明家として才能を発揮した父と、手仕事が好きな祖母や母のもとで明るく育てられた。絵画や染織はもちろん、学校ではバスケットボールや体操に明け暮れた女学生時代だった。
 やがて上野の美術学校に通う兄を追うようにして上京。入学した東京実践女子専門学校では染織、日本刺繍、フランス刺繍、和裁、洋裁、押し絵、デザイン、日本画などを学び、戦時中にあわただしく卒業した。実家に戻ってからは、盆踊り用に依頼される藍染め浴衣の図案を手がけ、染織にのめり込んでいった。結婚して家庭を持った後も、高校の家庭科講師の仕事の合間にも、いつも変わらずふとひらめいた図案を紙に描いてきた。
 「昔もいまも、私は花を見れば花を描きたくなるし、雲を見れば雲を描きたくなる。山や草木、水もそう。同じ花でも、梅は絞りやすいけど、桜は難しいですね」
 これまで多くの図案を生み出してきた作業場で、鉛筆を走らせ絵や文字を描きながらテンポよく話す。リズム感のある会話のなかから、次から次へと図案が生まれてくるかのような錯覚に陥る。
 「天井の模様を眺めてさえ、そこから想像してデザインをいつの間にか考えているんです。行き詰まることもあるけれど。終わりがないから、寝ても覚めても、そればかり」

豊富な色合いが魅了
 西馬音内に生まれ育った娘にとって、夏の盆踊りは特別な日。踊り手の手さばき、足さばきとともに、かがり火のもとで華やぐ衣装が観客を魅了する。
 「絞り染めや型染めの図案は、依頼された後に踊り手や囃子方の身長や体つきによって柄合わせします。その人の帯の位置なども確認しながら、踊ったとき、動いたときにその姿がきれいであるように。昔は西馬音内にも染め屋が5、6軒ほどあったのだけど、いまはもうないので染めは浅舞の工房にお願いしています。染め上がって待つとき、絞った糸をほどくときはいまでも心臓がどきどき。思い描いたようにいつもうまくできればいいのだけれど」
 踊り衣装ばかりではない。1枚のキャンバスに絵を描くように、1枚の布地を額絵作品として絞る。ベートーベンの『月光』を聴いて、あるときはフェニックス(不死鳥)に思いを寄せて。
 「額絵には踊り衣装という縛りがなくて、自由なのがいい。抽象的に、好きなように描けるから」
 絞った縫い目と縫い目のあいだを満たす藍色は、神秘的で奥深い光を秘めている。染めを重ねることによって、明るさのある紺青や群青、緑がかった浅葱や薄い縹色まで、「藍」とただひと色の豊富な色合いがえもいわれぬ情緒を醸し出す。
 「化学染料ではね、色が浅すぎるんです。自然から生まれる藍の色にはいろんな色がある。『青は藍より出でて藍より青し』というでしょう。だから藍染めが好きなの」

盆踊りの日に
 盆踊りを見よう見まねで踊り始めたのは「歩き始めたころから」と笑う。病で倒れた3年前まで毎年欠かさず衣装をまとい、踊りの輪に加わっていた。話しながら座っていた体を起こし、立ち上がって踊って見せる。
 「こうしてこうして、ここまでは踊れるの。でもくるっと回るところが、もう無理…」
 ふと表情が強ばった。
 「西馬音内盆踊りの魅力は、どこにあるのか私には分からない。見る側ではなく、ずっと踊り手のほうだったから。父は『果が打てる踊太鼓の音を聞け』、叔父は『公僕は笛の名手や盆踊り』と詠みました。あの音を聞くと、切なくなる。病気になってから一度見に行ったけれど、私はもう踊れないから、急にこみ上げてきて家に戻って泣いていました。いまは娘3人と孫3人に汗だくで衣装を着せた後、ひとりでぼんやりしています」
 ユーモラスな地口や哀愁を帯びたがんけ(甚句)が太鼓や笛の音とともに響く夜、彼女は『独り居て踊囃子を遠く聞き』と詠む。
 さまざまな女性の思いをのせて、年に一度、藍色の夜空の下で華やぐ盆踊りである。
(2010.8 vol83 掲載)

なわの・さんじょ
1922年、羽後町西馬音内生まれ。東京実践女子専門学校技芸科卒業。73年太平洋美術展工芸部門に始まり、日本手工芸美術展、国際芸術グランプリなどのほか、ブランデンブルグ文化芸術賞、ロートレック芸術大賞、パリ国際芸術祭芸術功労賞、日英芸術平和友好大賞などイギリス、フランス、イタリア、オランダ、オーストラリア、ロシア、アメリカなどで受賞多数。羽後町文化功労者。現在、地元JA婦人部の藍染しぼり愛好会などで指導を続ける。羽後町西馬音内在住