タイトル

アフリカの民族音楽が起源といわれる打楽器、マリンバ。
音域が広く、音色が多彩。音ひとつひとつに思いを込め、

心に響く音楽を「歌う」。

 広いステージの中央に、マリンバが1台。木製の大きな音板と、それらを支え音を響かせるパイプからなる打楽器である。
 そこに静かに歩み寄り、体の力をスッと落とす。棒立ちになった彼は祈るように目を閉じ、うつむいた。
 ステージの明かりがゆっくりと落ちる。かすかに浮かび上がる照明の中で、マレットと呼ばれるバチを手にした白い両腕が、しなやかに空を舞い始めた。

異色のマリンバ奏者

 「僕は少し、奏法がほかの人と違うんです」
 いたずらっぽく、そう話す。試しに音を響かせた。弾いたのは日本の童謡「赤とんぼ」。小刻みに音板をたたくトレモロが、ゆるやかに音と音とをつなぎ合わせ、優しく「歌う」。
 「マリンバは派手な動きが特徴となることが多いのですが、僕は『歌』を歌いたい。動きよりも、そこで勝負したいんです」
 ピアノの鍵盤のような配列をしたマリンバは、ローズウッドなどで出来た木製の音板をマレットでたたく。音を響かせるのは、音板ごとに下部に付いた金属製のパイプだ。マリンバは音域が広く、音色が多彩な打楽器。アフリカの楽器がその原形といわれ、現在、一般的とされる大きさのマリンバが出来上がったのは、ほんの30年ほど前という。
 まるで冬空からあられが降るかのような音かと思えば、ハープのように優雅に「歌う」。柔らかな音色かと思えば、堅く、強靱な音を弾ませる。それらの音を決める大きな要素となるのが、音板をたたくマレット。曲調とリズムに合わせ、自分の出したい音色によってその種類を使い分ける。
 「音楽の創り方がほかのマリンバ奏者と違うことで、これまでなかなか受け入れられなかった。僕はちょっと異色な存在なのかもしれません」
 日本を離れ、アメリカで暮らして9年。日本やアメリカ、ヨーロッパを舞台にした音楽活動は幅広い。マリンバで奏でる「歌」で世界を飛び回る。


導かれ音楽の道へ


 7歳で始めたピアノは、「なんだか集中できなかった」という。
 「ピアノは、鍵盤の前に座ってそのままずっと弾いているもの。体がうずうずとして、座って練習するのが苦手でした」
 小学校で太鼓にあこがれ、中学では吹奏楽部で打楽器を選んだ。冬のアンサンブルコンテストでは、担当教師の提案で数台の木琴を一度に操る演奏を披露し、喝采を浴びた。その時、言いしれぬ快感を味わったことをいまもはっきりと覚えている。高校では東北大会でマリンバ協奏曲を演奏し、金賞を受賞した。だが目指していたのは、化学の教師。高校3年の夏、教育学部の説明会を受けに北海道へ行ったものの、始まる直前に入ったトイレの中で、気が付いた。
 「あれ? 僕はやっぱり、音楽がやりたい」
 説明会を受けずに突如、その場で進路を変更。とんぼ返りして音楽の道へ進むことに決めた。「何かに導かれていたのかな」と、ぼんやりと振り返る。そして学生生活が始まった。

歌うことが基本


 「山形大学へは東京から年に4回、打楽器専門の先生が教えに来てくれました。でも先生は、マリンバに関してあまりコメントをくれなかった。そこで2年の冬、先輩から紹介してもらったピアノの先生に、マリンバを教えてほしいとお願いしたんです」
 そこで音楽に対する考え方が180度、変わったという。
 「音楽をすることの喜びや苦しみ、楽しさ、深さ、おもしろさ─。マリンバは心に響くことよりも、体の動きだったり見た目だったり、音ではない部分を重要とする人が多いけれど先生は違った。『こういうふうに歌ってみない?』『こういう音がほしいな』と、音楽の創り方、音の出し方を教えてくれました。歌うことが、音楽の基本。息を使って、心から歌うのが音楽だと分かった。演奏する人の心、人間性が大切なんだと思います」
 変化は、マリンバの奏法にも現れた。
 「先生が話していることを受け入れていったら、ほかの人とは違うスタイルになった。だから、行き詰まることはあったとしても、自分が目指す音楽の方向性は分かっていました。渡米してボストン音楽院で学んでも、それは変わらなかった。マリンバで歌を歌うこと。マリンバでどれだけ心から歌えるか、なんです」

ピアソラとの出会い


 これまで国際的コンクールで評価を受け、ソリストとして各国で数々の楽団と共演した。レパートリーに変化が現れたのが、2年ほど前。大館の母に、世界的チェリストであるヨーヨー・マが弾くCM曲を「ぜひ弾いてほしい」とお願いされたのだ。その曲は、アルゼンチンの作曲家アストル・ピアソラの「リベルタンゴ」。
 「母に何度もお願いされ、もうしょうがないなぁ、と。リクエストに応えて、ようやくリベルタンゴに向き合いました。そうしてピアソラの曲を弾くうちに、自分の中で何か突き破るものがあった。ピアソラとは誕生日まで一緒。弾き込むうちに『これだ!』と思いました」
 アメリカで独り立ちし、不安を感じていた時でもあった。それ以降、タンゴ音楽に革命をもたらしたピアソラの曲に、とりつかれたように夢中になった。
 「音楽に喜怒哀楽があって、それが豊かに表現されていて。『土くささ』というのかな。回りくどくなく、哲学的でもなく、ストレートに体に入り込んでくるものがある。とにかく新鮮で、新しい境地を開拓できました」
 昨年秋、イタリアで行われたリベルタンゴ国際音楽コンクール。出場者は1次予選からファイナルまですべてピアソラの曲を演奏する。ソリスト部門の使用楽器にマリンバは入っていなかったが、問い合わせたところ自分で編曲することを条件に参加が認められた。
 「勉強したいという気持ちで出場しました。勝ちたいと思うと逃げた演奏になってしまうけれど、その時は欲がなかった。歌い込み方を追求した演奏が出来たのが良かった」
 国際舞台で初めての優勝。異色のマリンバ奏者の才能が、ピアソラの曲で開花した。

喜怒哀楽を歌う


 2009年冬、アトリオン音楽ホール。最初に弾いたのは、マリンバの可能性とテクニックの限界に挑戦する「リズミック・カプリス」。マレットを持つ両手がしなやかに舞い、音板の上をリズミカルに駆け回りながらアメリカの風を体と音で紡ぎ出す。アーサー王伝説を題材にした「マーリン」では、マリンバで物語っているかのように弾き、時には背筋を凍らせるようにしてストーリー展開に入り込む。「この曲を聴いた瞬間、勝手に涙が流れてきた」というピアソラの「タンガータ」は、会場を包み込むように壮大なメロディーを響き渡らせた。そして「リベルタンゴ」で軽やかに、自由に「歌う」。タンゴのリズムで会場が沸いた後、マイクを持った。
 「日本を離れて9年になります。アメリカでの生活の中で、日本を思い出すように、次の曲を弾くようになりました。これを弾くと、昔の思い出がよみがえります。子どものころ、いまは亡くなった祖父の広い田んぼで、よく収穫を手伝った。赤とんぼがたくさん飛んでいました。あの風景が、なぜかよみがえってくるんです」
 そう話して演奏した最後の曲は、「赤とんぼ」。タンゴ音楽とはメロディーもリズムもまるで違う、日本の童謡。1音1音に思いを込め、静かに、もの悲しく歌う。喜びや苦しみ、楽しさ、心の深さ─。そんな喜怒哀楽を音に込め、「自分の声」と例えるマリンバで自由に歌い、音の世界を駆けめぐる。

(2010.2 Vol80 掲載)
顔写真

ぬのや・ふみと
1979年大館市生まれ。秋田県立大館高等学校、山形大学教育学部卒業。ボストン音楽院修士課程修了後、創立以来初めてのアーティスト・ディプロマ科マリンバ奏者として、学費全額免除のほか学長の特別賞与を授与され、卒業。2002年世界マリンバコンクール(ドイツ)3位、03年打楽器芸術協会国際マリンバコンクール(アメリカ)2位、05年Ima Hogg若手音楽家のためのコンクール(アメリカ)優勝。09年第3回リベルタンゴ国際音楽コンクール(イタリア)で日本人初、マリンバ奏者としても初めて優勝。これまで世界各国で演奏活動を行い、ヒューストン交響楽団、東方コネチカット交響楽団、仙台フィルハーモニー管弦楽団などと共演。2005年CD「赤とんぼ」出版。09年10月から10年2月までデトモルト音楽院客員教授として指導にも携わる。こおろぎ社専属アーティスト。アメリカ在住

布谷史人ウェブサイトhttp://www.fumitonunoya.com/