Kouko Odajima 小田嶋 幸子さん 染 織 家

草木で染めた経糸(たていと)と緯糸(よこいと)で、
一日一生を紡ぐ。

「機」に掛けられたのは、草木で染めたしなやかな糸。
静かに波打つ光沢は、草木がその身に宿す天然色。
経糸と緯糸を織りなして、一枚の布地が鮮やかに生みだされる秋の一日。

 横手市街地から北西に少し離れた上境地区。稲刈りを終えた田んぼの先に、道路を両端から覆うように雑木林が茂っていた。葉ずれの音と冬の気配を木枯らしが運んでくる。鬱蒼とした木々が揺れる広い屋敷。その一角に、工房はあった。
 「あれは、いつかの六月だったと思う。空き家になっていたこの実家を訪れて、空気を入れ替えていたの。窓を開けて、ふうっと風を入れて。その時、私はここに帰る運命なのではないか、ここで生きていくべきなのではないかと突然、思った。いろいろな迷いが消えて、この地に根を張ろうと決めた。生まれた土地に導かれたのかな」
 雑木林は風をはらみ、屋敷まわりを大きく旋回するかのように吹き下ろす。栗の木は実をもたげ、種子を付けた檀は、紅い。木々のあいだにたたずむ着物姿の主を、屋敷の草花が見つめていた。

庭の植物で染める

 秋から冬へと向かう十月の昼下がり。「五月と十月はこれなのよ」と座敷の火鉢に炭をおこし、鉄瓶を使って湯を沸かす。木枯らし吹きすさぶ庭を眺めると、深い緑色の葉が揺れていた。
 「あの糸杉からは茶色、あの紅葉からは鼠色。存在する草木の数ほど、色がある。植物からどうしてこういう色が出せるのか、昨年出たはずの色がなぜ今年は出ないのか、なんて驚いてばかり。この家で染織を始めた最初の一年は、庭に生えている木も草も、植物はすべて染めました。植物から採る色になぜこうもいろいろな現象がおこるのかは、いつもミステリー。季節によっても違ってね、春めく時は本当にいい色が出るのよ」
 故郷であるこの地に戻り、染織を生業として十数年。庭に茂る植物ひとつひとつから採れる色のことが、最近よく分かるようになってきたという。布を織る糸を染める「色」は、すべてここにある。

自分だけの「色」

 畳紙(たとうがみ)から出してくれたのは、丹念に織った薄茶色の無地の着物。経糸に椿の花と桜の花の鉄媒染を交互に掛け、緯糸には野ばらの鉄媒染で出した銀鼠と上溝桜の木の皮で染めた糸を使い、交互に織った。座敷に据えられた衣桁に掛けられていたのは、艶やかな光沢を放つ一枚の着物。金色の光のように波打つかと思えば、深みのある黄色にも見えるその着物はカリヤスで染めた糸の他、十数種類もの残糸を組み合わせて織り上げた。しなやかな生地をよく見ると、使っていないはずの淡い青色が布地にぼんやりと浮かんでいるように見える。
 「織り上げた布地に現れた青、それは偶然でした。銀鼠の糸と黄色の糸を太さや組み合わせを工夫して織ることで、きれいな青色を出そうと思っていたけれどうまくはいかなかった。これは偶然に生まれた淡い青色。この色合いの糸は使っていないけれど、草木で染めた糸が重なり合ってこんなふうに見えるんです」
 赤、青、黄、銀鼠、黒、茶…。化学染料と違い、草木は本来、蛍光色を持っているという。草木から生まれた光沢ある「色」は糸に染められ、機に掛けられる。植物が育つ場所やその年の天候によっても異なり、例えば庭の野ばらと川沿いの野ばらとでは微妙に色が違うのだという。植物で染め、丹念に手で織る布地の「色」は、その時にだけ生まれる「色」である。
 「私は、私だけの色をつくりたい。だから一枚一枚がチャレンジ。いまの布より、次の布、その次の布…。追い立てられてはいるけれど、決して苦しいことではないのよ。私はきのうのこと、あしたのことに興味はない。一日一生だと思ってる」

祖母の織物への憧れ

 登場人物によって決まり柄の多い歌舞伎では、主役の衣裳を手がけることもある。草木染、歌舞伎衣裳の複製、江戸時代に大流行した唐桟織の研究など、研鑚を積む染織への迷いはみじんも感じさせない。染めと織りを究めながら自然体で暮らす彼女の生き方に惚れ、その着物を求める人は多い。
 「染織はお天道様との闘い。カンカンに照ってくれないといい色が出ない。すぐにくすんじゃう。気候的にもここは、決して悪い条件じゃない」
 横手での染織人生へと導いたのは、母が着ていた一枚の丹前。それは昔、祖母が自分の手で織った着物だった。
 「子どものころ、それを聞いて驚きました。布を『織る』ということが不思議だった。こんな風に、自分で布をきれいに織ることができるなんて。祖母にできたのだから、、私にだって布が織れるかもしれない…」
 「機」に憧れたのは、そんな話を聞いた子どものころ。昔はどの家でも蚕を飼い、繭をとり、糸を紡いで鍋で煮て染め、家族の着物を織っていた。そんな作業風景が日常だったころを、知らない。
 「一から教えてくれる人は誰もいない。ある時、訪ねて行った隣町のおばあさんは『機がないと教えられない』と。それでも私はずっと、機で布を織ってみたかった」
 憧れは尽きなかったが、染織の仕事を志していたわけではなく、どの職業も「自分の仕事ではない」と辞めた。三十歳で初めて染織に携わろうとしたが、「大学まで出したのに女工のような仕事をするなんて」と母に泣かれ、仕方なく辞めてしまった。だから染織を生業としている年月より、夢見ていた月日がはるかに長い。
 「長野の松本で、陶芸家と一緒に暮らしていた時期があったの。でもその人は、陶芸をする土からやがてオカリナを作って、陶芸家から音楽家になった。私は彼に、ずっと陶芸を続けてほしかったのに。でもそれは、他人に自分の夢を重ねていただけ。彼に言われたように、私は自分のやりたいと思うことに真剣に向き合うべきだった。今は、背中をおしてくれた彼に感謝しているんです」

着物に生き方が宿る


 見失いかけていた「道」が開かれたのは四十七歳の時。山形の米沢高等技術専門学校でノウハウを学んでからは、染織の道を自力で突き進んできた。「やりたいことをやる人生はいいものよ。犠牲は多いけど、ね」と言って、庭を見わたした。
 「着物を求めてくれた人に聞いたら、その人は私の布が好きなだけで求めてくれたわけではなかった。『人の生き方だ』って。その着物がどんな風に染められ、織られてきたのか。どんな人が、どんな風に生きて、この着物を織っているのか―。大切なのは、ものの背景なのだと思った」
 秋空はさらに高く澄み、草木はざわめきを増す。着物姿の主は庭できりりとほほ笑んだ。


(2007.12 Vol67 掲載)

 

おだじま・こうこ
1947年横手市生まれ。秋田経済法科大学経済学部卒業。94年米沢高等技術専門学校で染織を学び、横手市の自宅で草木染・唐桟(どうざん)などに励む。98年から松竹衣裳の委託を受け、歌舞伎衣装の複製を行う他、織物の歴史、技法の研究にも取り組む。
秋田県横手市在住