Tsuyoshi Saito 斉藤 毅さん
パティスリーオーナーシェフ・
レストラン「森本」ニューヨークデザート技術開発チームヘッドシェフ・
パティスリーコーディネーター

インスピレーションを頼りに「自分にしか創れないものを」と、つきつめた結果のケーキである。あくまでもオリジナル、という精神の強さは数々の挫折を経て、培われてきたという。

 稲川町の実家が和洋菓子店を営んでいて、子どもの頃から父の仕事を見て育ったという。注文があれば夜遅くまで忙しく働き、盆や正月など他人が遊んでいる時も休めなかった。そんな父の姿を見て子ども心にも個人営業の店は辛いから嫌だと思っていたが、高校三年の時にはケーキ屋をやろうと決心していた。それも真剣に修行したかったので、誰も頼る人がいない東京の店に決めたという。孤独を味わいながらやれば、精神的にも強くなれるだろうと。二十九歳にして名料理人とコラボレーションを組んだり、秋田にいて東京の一流デパートに出品するなど、意欲的に活動している斉藤さんだが、自分のことを語る時は「精神」という言葉が多く出てくる。

ケーキ職人を志す

 十八歳でケーキ職人を志し、いろいろな店を経て、二年前に自分の店をオープンした。今作っているケーキの一つ一つが十年間の修行の成果であり、どれもオリジナルである。同じレシピで大量に出回っているケーキもある中で、自分はどこにでもあるようなケーキはつくりたくないという。オリジナリティのあるケーキづくりにはインスピレーションだけが頼りだが、素材の選び方と、どこに重点を置くかで決まってくる。そうやって納得のいくケーキが作れたとしても、経営という観点からも計算しなければならず、そういう諸々のことを頭をクリアにして考える精神的なタフさが要求される。高校卒業後すぐに入った店はそうした精神を鍛えるにはまさにうってつけのところだった。
 その店は都内で五店舗を営業しており、通常なら十五人ほどの職人が必要なところだが、抱えている職人は十人しかおらず、従って一人当たりの仕事の量も多かった。就職した初日は朝の五時に厨房に入り、仕事が終わったのは夜中の一時だったという。丁度、ホワイトデーの前日ということもあったが、その店は年中そんな状態だったという。夜の十時に終わるのは早い方で、そういう時は生クリームの絞り方やアメ細工の練習をした。昔から「職人の技は見て盗め」と言われているが、その店も例に漏れず、戦争のような忙しさの中で下っ端の新人に教えてくれるはずもなかった。やる気のある者は成長していくし、言われたままにしかやらない者はそこで止まるという、まさに厳しい世界である。就職という意識ではなく、仕事を覚えるという目的を持ってその店に入った斉藤さんは、ひと通りの菓子作りを覚えたら、次は上の段階に行くことを考えていたという。


菓子作りの深さを知る

 ボール洗いから始めた最初の洋菓子店では三年の間に焼き菓子まで任されるようになって、ひと通りの菓子作りを覚えたと自負していたという。次に自信満々で挑んだのがフランス料理の名店クレッセント(東京都港区芝公園)だった。もう一度洗い場から始める覚悟で月三万円の給料でいいからと頼み込んで入った店だったが、そこで、それまで覚えてきたケーキ作りがすべてではないことをまっ先に思い知らされることになった。
 クレッセントのフランス料理は本場にも劣らぬものとして度々雑誌にも紹介されている。デザートのお菓子も繊細かつ芸術的だった。例えば、職人であればどんなケーキを見てもつくり方がすぐに分かるものだが、種類の違うムースを1ミリずつ重ねたりするクレッセントのケーキは、どうやって作ったのか説明もできないほどだった。定規やピンセットで細部にも気を使って作るケーキは驚愕だった。「こんな作り方があるなんて」。自分は一人前だと思っていた誇りが見事に打ち砕かれた瞬間だった。


チャンスを自ら作る

 クレッセントでは厨房に入る時間は朝七時だったが、新入りには清掃や包丁の殺菌という準備作業がある。皆と同じ時間に入っていたのでは一日洗い場で終わってしまう。そこで、五時に入って七時前には準備作業を済ませて、七時から皆と同じ仕事ができるようにしたという。そういう行動的な態度は周囲に対して「こいつはヤル気がある」という強烈なアピールになった。通常なら三カ月の見習い期間だが、三日目で正社員になったという。「チャンスは自分で作る」そんな姿勢がチャンスを引き寄せた。
 クレッセントでフランス菓子に目覚めて、本場のパリで菓子づくりをやりたいと渡仏したのが六年前だった。だが、どこに行っても職人の世界は厳しかった。「私の菓子修行は挫折の連続」と笑う斉籐さん。年齢に関わりなく、一日でも早く入店した方が先輩になり、上下の関係なくライバル同士になる。出る杭は打たれるの例えどおり、嫉妬や嫌がらせもままある。技は盗め、見て覚えろと言われるが、見られないようにわざと用を言いつけたりする先輩もいる。フランスの菓子店、ベルギーの菓子店、どこでも新しい店に変わる度に叩きのめされたという。生来が負けず嫌いなので腹の立つことも大分あったそうだが、そうしたダメージから自分を守るためにも、強い精神力が必要だった。


秋田に自分の店開く

 一年半の間にパリやブリュッセルでアントルメ・シェフとして働いた後、帰国。二年前に秋田市の広面に初めて自分の店『パティスリー・ストーブ』をオープンした。東京で活躍していた人がなぜ秋田でと、問われることも多いというが、内装も含めたトータルコーディネイートでお菓子作りをしたかったので地価の安い秋田なら自分の思いどおりの店にできること、そして両親の近くに住みたかったからだという。
 白い壁にパステルカラーの小物をポイントにした『パティスリー・ストーブ』の店内はフランス菓子のように小粋でおしゃれなムードがある。現在、この店で働いているスタッフは五人。いずれも将来は独立したいという若者たちであり、仕事を覚えたいという姿勢も前向きだ。斉藤さんも職人の世界で苦労してきただけに、一所懸命に努力する人には教えてあげたいという。しかし、お菓子作りに必要なものは技術だけではない。個性的なケーキを作るだけでなく、それを原価計算も含めて売り上げに比例させる経営の感覚も必要だ。植物性のクリームと違って、動物性のクリームは高価であり、保冷にも気を使う。そうした良質の素材で作りたいケーキをつくって、いかに安価に提供できるかという経営をからめて前に進むこと。自分のケーキをどこに、どのようにアピールしていくか方向を定めることも重要だ。


東京にも出品続ける

 ケーキの消費量は全国でも首都圏が群を抜いている。現在は二カ月に一度の割合で東京高島屋に出品しているが、そのためにこれまで作ったケーキは三百〜四百種類にもなったという。他にはない『パティスリー・ストーブ』のオリジナルを求めて作ったケーキである。
 こうした首都圏の他にも斉藤さんのケーキをアピールする場がある。三年前からテレビ番組で知り合った「和」の鉄人・森本正治さんのアメリカ・フィラデルフィアの日本料理店に出向いてデザートも手がけるようになった。最新の和食の最後を飾るデザートはフランス料理のデザート顔負けの美しさを演出する。持ち帰りができず五分も形がもたないはかなさがデザート菓子の本領だと知ったという。味・形とも最高のものをわずかな時間に閉じ込めるデザート作りには瞬間芸のような緊張感がある。フィラデルフィアの料理店の方にはレシピだけを送っているが、今、斉藤さんの関心を引いているのがニューヨークだという。世界で最も刺激的な街、ニューヨーク。そこで、斉藤さんがつくりたいのは和の素材を使ったケーキだ。日本らしい素材を使った新しいケーキを見つけていきたいという。
 店の名前は東北秋田には暖かいストーブのイメージがあるといってニューヨークの知人が考えてくれたという。来春はまたニューヨークで森本さんとのコラボレーションが予定されている。斉藤さんの頭の中では来春に向けて世界の中の和のイメージ作りが始まっている。

(2002.11 Vol37 掲載)

さいとう・つよし
1971年、稲川町生まれ。高校卒業と同時に東京・八王子の菓子店で修業をスタート。3年後、芝公園のレストラン「クレッセント」でフランス菓子の基礎を学ぶ。1996年、渡仏。パリの「レグリーズ」、ブリュッセルの「アリガトー」、パリの「クーデル」に勤務。1998年、帰国後はレストランのシェフの傍ら、新宿高島屋や伊勢丹のイベントに参加。テレビや雑誌などでも活躍している。2000年10月、秋田市にパティスリー・ストーブを開店した。