Masato Shida 志田 政人さん
ステンドグラス作家

はじめは自由芸術を志して渡ったフランスだったが、いつのまにか封建的な中世美術の世界に浸ることに。しかし、そこで学んだ技術と知識は後の自由な作品を生みだす基礎となるものだった。

 秋田の光は「持って帰れる」ような実在感のある光だ。かつて、鳥海山の森で見たことのある光は手でつかめるほど物質的に感じられた。光に色がついていたり、表情があるように見えるのはとても重要なことだ。セザンヌの描く光には五色くらいの色があったので本当だろうかと思ったが、あの時の鳥海山の森の中の葉っぱを通した光には色がついていた。秋田の光は見せなくてもいい所は照らさない遠慮のある光、照らしていいものと、悪いものの区別ができている光だ。
 寒い地方特有の乾燥した清冽な空気はステンドグラスの色にとてもいい表情を与えてくれる。秋田にいるとステンドグラスというものは北のものだなと感じる。


古典技法から学ぶ

 ステンドとは焼き付けするという意味で、五〜六世紀のシリアで生まれた技法だが、これが中世のヨーロッパに渡りゴシック建築とともに爆発的に広まり、技術が急速に発達していった。私がメチェダール(フランス国立高等工芸美術学校)で学んだのはこのステンドグラスの千年に及ぶ技法で、自分のステンドグラスを自由に描くためにはこれらの古典技法の技術を修得したことがとても役に立った。
 メチェダールではルネ・ジルー教授に教えていただいた。メチェダールは本当に勉強したい人のための大学で、日本でイメージするアメリカ的キャンパスとはかなり違い、同好会やサークルなどもないし、学生も目的もなく集まったりしない。最近ではそれほどでもないが、フランスにはアメリカ的なものに嫌悪感を持つ人が多く、そうした影響があるかも知れない。みんな自分の勉強を一生懸命やっていて、卒業する時も「アデュー(しばらくの別れ)」の一言でそれぞれの方向に去って行く。個人主義は学生でも徹底していた。最初はその感覚が分からなくて、あれこれと気を遣っていたが、そんな必要がないことが次第に分かってきた。日本人は義理でつきあいを考えがちだが、フランス人は自分に素直なんだと知って、私もそれはとても気に入っている。

中世の作家が身近に

 大学は週に四日間だけだったから、他の三日間は地方の教会を見て歩いた。メチェダールの学生は美術館も無料で見られるし、教会のステンドグラスをはずした時に近くで見ることも許されていた。歴史博物館の出入りも自由で、そこで中世の作品を修復したり目いっぱい勉強ができた。はじめは神聖な光の芸術として捉えていたステンドグラスだったが、そこに描かれているのは物語であり、その一点の絵には壮大な絵巻きものが秘められていることを知り、奥の深さが私をひきつけた。
 風を満身に浴びているような絵を描いたアングラン・ルプランス、それとは対象的な静のアーノルド・ニメーグなど、中世の技法を自分も学んでいたから、それを描いた焼き絵付け師が急に身近に感じられてきた。生来が凝り性なので、ステンドグラスをやりはじめたら、生活のすべてが徹底してステンドグラス中心であった。


心機一転フランスへ

 私は最初からステンドグラスを目指していたわけではなかった。子どものころから絵画をやっており、芸大一直線の入試勉強をしていた。ところが何度受けてもダメで、試験が終わって上野の森でボーッとしていたら、予備校時代の先生の「日本でやるより、君なら海外で自由にやった方がいいんじゃないか」という言葉が思いだされた。先生の頭にはフランス絵画界の自由な雰囲気というものがあったんじゃないかと思うが、私もこの際だから心機一転と思ってフランス行きを決めた。
 子どものころに母に連れられていった美術展で見た神秘的な光…ガラスを通したほの明りに浮かぶ絵が眼に残っていた。ステンドグラスがいい、フランス行きと同時にメチェダールへの進学を決めていた。東京日仏学院に通って一日八時間フランス語の授業を受けて、フランス人の先生の家まで押しかけて生活用語を実地で覚えるという準備期間を一年間とって、メチェダールを受験した。
 メチェダールには絵画や写真、彫刻などの専門課程があって、私が選んだのはステンドグラス科だった。教授陣にも相当な人がいてステンドグラスの世界は中世以来続いている徒弟制度、マイスターの上下関係が厳然とある社会だということも次第に分かってきた。また、表現についても厳格な基準があり、例えば、十三世紀のキリストの顔、マリアの顔はこうあるべきだ等の「決まり」がたくさんあって、それを忠実にやって技術を磨くことを教えられた。それができてはじめて一人前であり、自由なものをつくりなさいと言われる。きちんとした技術修得の修業が大事だと分かったのはその時だった。

自分で焼き絵付けも

 ステンドグラスは地域や時代によって分業化されてきたが、十六世紀ころには作家がデザインも起こすようになっていた。私も絵だけ描いてもいいけれど、焼き付けまで自分でやらないと気が済まない。
 技法を簡単に説明すると、使うガラスは手吹きガラス。青い板ガラスの時はコバルトを入れたり、ピンク色にしたかったら金を入れて溶かし、アメ状になったガラスを吹いて両側を切り、窯の中で開くと青やピンクの板ガラスができる。これはガラス吹き職人の仕事である。私の工房には、この板ガラスの状態で来る。板ガラスの色は何千種類とあって、ステンドグラスは透明なガラスに着色したりする物ではなく、ガラス片その物が色ガラスであり、それが何枚も集まって構成されている。大きさは一枚が六十〜八十センチ角くらい。これを繋げてどんな大きなものでもできる。バラ窓などは、数万枚のガラス片で構成されているものもある
 型紙を一つ一つ切ってガラスの線を決める。ダイヤモンドカッターで型紙のとおりガラスを切り、切った板ガラスにグリザイユ(専用絵の具。十年も寝かせた物を使用する事もある)で絵を描く。これを電気炉で八〜十時間かけてゆっくり焼くと、表面のガラスがアメのように柔らかくなり、比重の重いグリザイユで描いた絵が少し中に入るので、これをゆっくり冷やしていく。こうすると雨にさらしても絵は落ちない。こうやって何度か焼いてできたものを鉛の桟を組んでパテを入れて仕上げる。日本でいわれているステンドグラスはこの焼き絵付けの工程がごっそり抜け落ちている。

パリのアトリエが拠点

 大作の場合はデザイン決定後、数人のスタッフに指示しながら制作を進めるが、それも全部の工程を自分でもやったことがあるから指示ができる。メチェダールで学んだものはすべて今の私に生かされている。
 フランスに渡る前に予備校の先生が「フランスで自由にのびのびやった方がいい」と言っていたような世界ではなかったけど、以外にもピッタリはまってしまった。
 日本に帰ってからは東京・赤坂に事務所を設けていたが、昨年、パリ郊外のイヴリー・シュル・セーヌにアトリエを建てた。ここは芸術家を対象に政府が安く土地を提供した芸術家村のような区画で二階建てのロフトを想像してもらえればいい。建物は外観が全戸一様だけれど、内装は自由にできるから家族が生活しやすい日本式にして、子どもが休みの時には一家でここで過ごすようにしている。


名作を収集して出版

 フランスでの生活は子どもにとっても非常にいいと思う。遊ぶにしても、日本ではお金が無いと遊べないけど、パリだったら近くの森で一日過ごしても十分楽しく遊べる。フランスにもディズニーランドはできたけど、フランス人はあまり行かない。フランス人にとって七月〜九月のバカンスが最大の遊びだから、仕事もバカンスのためにしているという感じだ。「バカンスを楽しめなかったら人生じゃない」というのがフランス人だから。
 毎年決まったリゾート地に、キャンピングカーを引いて移動し、一〜二カ月を家族で過ごす。そこはバカンス時期だけの生活や人付き合いがあり、日常とほとんど変わらぬ出費で楽しむ事ができる。遊ばせてもらうのではなく、自分で遊ぶ。自分最優先のフランス人は遊ぶのもうまい。子どもにこういう空気に触れさせることができてよかったと思う。
 昨年暮れに、これまで訪ね歩いたステンドグラスの名作をまとめた本『フランス教会に見る光の聖書・ステンドグラスの絵解き』(日貿出版)を著した。これからもイヴリー・シュル・セーヌのアトリエを研究の拠点にまたフランスの教会巡りを続けたいと思う。

(2002.5 Vol34 掲載)

しだ・まさと
1958年、秋田市生まれ。秋田高校卒業後、1981年に渡仏、フランス国立高等工芸美術学校(メチェダール)ステンドグラス科に入学。同校在学中と卒業後の一年間に600あまりの教会のステンドグラスを取材・撮影する。1985年、帰国し東京・赤坂に『アトリエ・ルプランス』を設立。2000年、パリ近郊イヴリー・シュル・セーヌに研究のための自宅兼アトリエを設立。