Cho Shida 志田 蝶さん
日本赤十字看護師同方会秋田県支部長(フローレンス・ナイチンゲール記章受章)

人種、思想、国籍など関係ない。
被害に遭ったひとを助けるのが、私たちの務めです。

白地に赤い十字は、人道、公平、中立、独立、奉仕、単一、世界性という普遍性の象徴。
ひとりの女性の半生が、その精神を語り継ぐ。


 秋田市上北手の秋田赤十字病院。白い廊下をわたり、幾人かの看護師に挨拶して、明るい院内を足早に歩く。「久しぶりに病院を訪れてみると、まるでふるさとに戻って来た感じ」
 太平洋戦争の幕開けとともに看護師となり、内地で、外地で、洋上で戦禍をくぐり抜けた。戦後、日本の医療と医療教育に心血をそそぎ、「赤十字」の思想のもと生きた齢は、ことし八十六歳。
 「勤めた場所も、建物も、人も、みんな替わっていますけれど、ここに来るとなぜか懐かしい」
 静かに半生を語る言葉は、まるで祈りのようでもある。

憧れた白衣の天使


 「私は初孫でしたからね。蝶よ花よと大切に育てられ、生きていってほしいとの願いから、祖父にこう名づけられました。実際はまるで違う人生でしたが」
 看護師への道を歩んだのは、職業婦人へのあこがれから。当時、男性と同じように仕事を持つ女性と言えば、学校の教師か電話の交換手、あるいは看護師などだった。
 「私たちの世代は、物心ついたころから、ずっと戦争でした。そのころは赤十字の看護婦さんが活躍していましてね。女は、女学校を出たら、お裁縫でも習ってお嫁に行くのが普通でした。でも私は、白衣の天使にあこがれた」
 赤十字病院は山形県内にはなく、秋田支部で養成期間を過ごした。翌年三月に卒業という三学年の秋、十月十日。約半年を残して突然、卒業を命じられた。
 「初めはどうしてこんなに早く卒業なのか、訳が分からなかった。実家の余目に荷物を送り、慌ただしく帰らされました。山形支部に顔を出してみて、その理由が分かりました。私に兵隊さんと同じ、召集令状が出たんです」

女性も国のために

 「兵隊さんは赤紙をもらうと、親族や近所の人に『万歳!万歳!』と、盛大に送り出されました。でも私は『隣近所には決して言ってはならない。こっそり来なさい』と命じられていました。満州事変は起こっていたけれど、戦争はまだ緊迫していませんでしたから、意味がよく分からなかった。ただ自分が、戦地に行くことだけは覚悟しました」
 召集令状を断ることなど、決して許されない時代。看護に挫折を覚えることも、その場から逃げることも不可能な状況…。しかも、看護師の勉強を始めてまだ二年と半年。不安はあったが、それでも心は「誇り」で満たされていたという。
 「女だって、戦地に行く男と同じように、国のために働ける。そういう誇りがありました。昔はね、意気込みが違ったんですよ」
 召集令状通り大阪に向かうと、待っていたのは白地に赤い十字を描いた赤十字の病院船だった。生まれて初めて大きな船に乗り、向かったのは海の向こうの上海。港に着いた十二月八日、太平洋戦争が勃発した。
 「その時、初めて知りました。だれにも言わず、隠れるようにしてここまで来たのは、太平洋戦争の準備だったんだと」

船酔いの中で看護

 香港、台湾、マニラ、遠くはパラオまで、戦地から内地へ患者を運ぶ船の旅は続いた。大阪や広島から戦地へ向かう時はのんびり海を眺められたが、戦地から患者を乗せて戻る時の船内は、まさに戦争だったという。
 甲板から縄ばしごで降りる訓練をし、真水は使えず海水のお風呂に入り、船酔いに苦しむ看護師は、吐きながら看護をしたという。負傷して内地に戻らざるをえないことを恥じ、身を投げようとする患者を甲板で監視することもあった。「命永らえて内地に戻るのに、兵隊さんは『いまさら生きて帰れない』と。教育というのは、恐ろしいものです」。そう話して、目を潤ませる。戦争がもたらす悲しみ、嘆き、愚かさ。それを身に染みて感じながらも、懸命に生きた時代だった。
 「船旅に堪えられるけが人でなければ、船には乗せられませんでした。でもただひとり、病状が急変した患者がいた。南洋からの航海で氷もないし、棺もない。体をただ白いシーツにくるんで、船から海に落として見送りました。落とした周囲を回って、ボーっとお別れの警笛を鳴らして。あの時、どんなことをしてでも内地に連れて帰れば良かった。いまでもそれが、心残りです」

長年の活動が報われる

 戦後の昭和二十一年。秋田赤十字病院に勤務してからは、医療体制が整わない環境と食糧難において、「本当の看護とは何か」を模索した。
 「病院には満足な給食などないから、入院患者の家族はサツマイモやザラメなどを持ち込んで、廊下で煮炊きしていました。シーツ一枚でさえ、手に入れるのが容易ではない時代。配給なんてなかったから、本当に大変だった。少しずつ、少しずつ、給食を増やして、病床を増やして。アメリカの看護師は私たちの看護技術の低さを見抜いて、厳しい指導をしてくれました。患者への身の回りのお世話の仕方まで、事細かに教えてくれた。日本とアメリカでは、看護の技術も意識も、まるで違いました。戦争で負けるのは当然と思いましたしたね」
 看護の教育者として、また厚生労働省の医療審議会委員として、戦後の医療と共に生き、看護の未来をひたすら見つめてきた。二〇〇七年にはフローレンス・ナイチンゲール記章を受章。赤十字のもと、長年にわたる看護活動が認められた。

赤十字の精神忘れず

 取材のため、久しぶりに病院に来ていただいた。病院の白い廊下を歩く姿は、現役の看護師に劣らないほど軽やかで、迷いがない。
 「食事は偏らないようにしてますよ。腰が痛くなければ、できればもっと歩きたいのですが。風邪はひかないようにしないといけませんね、年寄りが風邪をひくと、面倒だから」
 淡々と、率直に。さらりと、さり気なく。七十年近くの看護人生を背景にした言葉は、人に対しても、自分に対しても冷静さを失わない。
 「戦争がなくなっても、赤十字の精神を忘れてはならない。これはとても精神的なこと。人種も思想も、国籍も関係なく、戦争や災害で被害を受けた人を助けるのが、私たちの務めです。時代が変わっても、その気持ちは受け継いでいってほしい。生きがいを感じて仕事をしてきて、よくここまで乗り越えてこられたと自分で思います。いまはこうして、ひとり、昔のことを思い出しながら過ごしてますよ」
 落ち着きのある口調と、祈りのような昔語り。凛と生きる女性のたたずまいを、春風がそっと包み込む。どんな時代になろうとも、赤十字の印は毅然として在り続けるのだろう。


(2008.4 Vol69 掲載)

 

しだ・ちょう
1922年山形県生まれ。救護看護婦秋田赤十字病院養成所を卒業後、第2次世界大戦の戦時救護に従事。派遣中の2年間で病院船に36航海勤務し、終戦後は帰国引揚者の救援活動にあたった。46年秋田赤十字病院に勤務、十分な医療体制の整わない現場において看護体制の向上に努めた。秋田赤十字高等看護学院教務部長のほか、厚生省(現厚生労働省)医療審議会委員として看護教育の向上に尽力。秋田市在住