菅原美紗タイトル

危機に瀕した人々を救い、現状を多くの人に伝えたい─。
ひとりの女性が世界へ飛び出した。


 子どものころ、母に連れられてよく教会へ行った。
 たまに催されたのが映写会。ほの暗い空間に映し出されたのは、どこかの国の、どこかの人たち。大勢の難民のなかに、ぼう然とたたずむ赤ちゃんの瞳があった。
 「私の知らないどこか遠くの国で、何かひどいことが起きているのかもしれない」
 かわいそうとは思わなかった。「なぜ?」という疑問を抱いた。
 そんなぼんやりとした、しかし強烈な印象を心に刻んだ。自分の知らない、遠くの世界の悲しい現実に思いをはせた─。
 あれから二十年余り。いまもあの時見たうつろな瞳が、目に焼き付いて離れない。

母の「強さ」に憧れて

 母の姿を見て育った。白衣を着て患者を診る時の格好良さ、開業医としての責任の重さ─。そんな母の「強さ」に憧れ、弘前大学医学部に進学。医師になることをただ漠然と考えていたころ、小児科や小児外科の実習をして心が動いた。
 「それまで子どもは苦手だったんです。でも初めて病気の子どもたちと接してみて『子どもってすごい生き物なんだ』と思った。この子たちが一体何を考えているのかを考えながら接するのが、とても楽しくて、居心地が良かった」
 卒業後は横浜市の神奈川県立こども医療センターにレジデント(訓練生)として勤務。内科や外科から整形外科、遺伝科まで、子どもに関わるすべての科を経験した。しかし二年が過ぎるころ、小児科医への思いをかすめるものがあった。
 「難民キャンプにいる子どもたちのフィルム映像が、目にチラチラと浮かんできたんです」


世界に飛び出す


 「このままふつうの医師になることが、自分のなかでしっくりこなかった。なぜか迷いがありました。医師になるよりも、世界に出て英語を使って働きたかった。母のような医師になる前に、自分がやるべきことを見つめたい。そんな内なる声に気が付いて、私の思考が停止してしまった。その時初めて、殻に閉じこもっていた自分と本気で向き合いました」
 世界中の紛争地や被災地などに赴き、医療援助を行う「国境なき医師団(MSF)」。その存在は子どものころから知っていた。母もMSFにあこがれたひとりだった。「自分がどうすべきか決められないなら、ゆっくり休んで考えればいい」。留学したいという娘を、母はそう言って送り出した。
 留学したシアトルでは、心理学や家庭小児学を学びながら英語力を磨いた。社会貢献活動をするNPOにも参加。ドメスティックバイオレンスを受けたアジア系女性のサポート活動に夢中になった。語学力と社会貢献活動への自信がつくにつれ、MSFへの気持ちは固まっていった。
 帰国後、医師として臨床経験を積むため中通総合病院に勤務。小児科医として子どものすべての病状に関わり、外来、入院から当直、救急外来、骨髄移植まで経験した実績を携え、MSFに応募した。
 最初の派遣は、紛争が続くダルフール。初めてにも関わらず、世界中で最も危険な地域の一つへの派遣─。「死ぬことすらあり得る」と悩み抜いた末、参加を決めた。だれからも干渉や制限を受けることなく、人種や政治、宗教にも関係なく、助けを求める人々のもとへ向かい、医療・人道援助を行う─。自分の理想とする仕事へ、あこがれた世界へと飛び出した。

紛争地での人道援助


 ダルフールの難民キャンプでは、人々はビニールシートをテントにしてひしめき合うように住んでいた。栄養状態や衛生環境が、日本とは全く異なる現場。肥満外来さえある日本の医療しか知らなかったため、当初はスーダン人の医師に付いてマラリアや栄養失調について学んだ。日本では助けられる方法も、ここではまるで通用しない。常に襲撃に備えながらの医療だったが、恐怖を感じながらも無我夢中だった。
 「医師だというのが、私の最大の強み。その強みを生かしながら、派遣される地域のバックグラウンドを理解して医療・援助活動をしなければなりません。志したのは、総合的な人道援助マネジメント。私は生きるための医療が本当に必要な地域の、その現場で働きたい軍事戦略の一環として、国家や軍が人道援助をうたった活動を行い、それが紛争を長引かせている面はあるかもしれないけれど、見捨てちゃいけない、やらなきゃいけないことがある。ダルフールでの活動を終えた時『やり終えたんだ』という充実感がありました。でも、私は終わって帰れるけれど、この人たちはこの危険な場所から身動きできない。医療行為だけでは解決しないんです。紛争地域では、政府の思惑ひとつでたくさんの人が死んでいく。それを見てきたからには、その状況を私は伝えていかなくてはならない」
 ダルフールを経験したことで、それまで見えなかったことが見えてきたという。
 「日本にいる時は何も分からなかった。無知でした。日本と世界はつながっている。世界はひとつになっている。日本だけ安心して、安全に守られているなんてありえません。ありとあらゆる部分で各国はお互いに入り込み、影響し合っているんだと知りました」

活動の幅広げたい

 スーダン・ダルフールの後はイエメンに建った新しい病院へ医師として、二〇〇八年は中国・四川省の地震被災地へ医療チームのリーダーとして派遣された。
 「現場でいろいろな人に会いました。臨床の分野でも、公衆衛生の分野でも、それぞれに知識の量や経験が私とは違う。このままMSFの活動に参加するだけでなく、自分の可能性を広げていきたいと思っています。もっと学んで自分の下地にしていくことで、さらに活動の幅も広がっていくはず」
 いまはまた、公衆衛生学を学ぶため留学することを考えているという。ひとりの女性の可能性は限りなく、見果てぬ未来を熱く語る。胸の奥には、難民キャンプの赤ちゃんが写ったあのフィルムを揺らめかせながら。

(2009.4 Vol75 掲載)
顔写真

すがわら・みさ
1977年秋田市生まれ。弘前大学医学部卒業。神奈川県立こども医療センター勤務後、シアトルへ語学留学。2004年から約2年間、中通病院に小児科医として勤務。2006年「国境なき医師団(MSF)」の海外派遣に参加。これまでスーダン・ダルフール地方やイエメン、中国などへの派遣を経験。秋田市在住
国境なき医師団  http://www.msf.or.jp/