Toichi Takahashi 高橋 藤一さん 杜 氏

酒は生きている。
ここは、人間がしゃしゃり出る世界じゃない。


決して櫂(かい)入れをしない。決して水を加えない─。
本物の酒造りを目指した飽くなき挑戦が、何百年と続く酒造りの常識を覆した。

 仕込み蔵に足を踏み入れた途端、華やかな香りに包まれる。
 酒のにおい、ただそれだけではない。タンクの中でプチプチと弾ける泡の音、うごめく酵母、甘い麹の芳香、明治35年から受け継がれる蔵の空気…。すべてが混然となった馥郁たる香りが冬の冷え切った蔵の内部を満たしている。
 「早朝、酒蔵に入ると、何とも言えない幸福感に包まれる。蔵に勤めた者じゃないと分からない感覚ですよ」
 密閉された酒蔵に漂う芳香に浸ることができるのは、「蔵人たちの特権」という。
 ここは、米と水、米麹、そして蔵人の技が一滴を醸す世界。世間と隔離された「酒蔵」という舞台。厳寒の冬、海沿いの小さな酒蔵に仕込みの季節が訪れた。

「本物」の酒造り

 由利本荘市石脇の「由利正宗」、齋彌酒造店。蔵人の一年は酒蔵と、そして酒米と共にある。
 五月、春風のなかで田んぼに入る。
 雪解けを待ちわびた土壌を耕し、水を張って植えるのは、秋田で生まれた酒造好適米「秋田酒こまち」。夏場に手をかけた酒米は、十月上旬に収穫を迎える。刈り取りを終えた十月中旬、蔵人たちは育て上げた酒米と共に蔵に入る。約二カ月後の十二月半ばに搾りを迎え、四月いっぱいまでは蔵で過ごす。そして五月、また田んぼに入って仕事が始まる。
 「農家が酒造りをすることはいい。その年に仕込む酒米の出来をしっかりと把握できるから。米の状態をつかまえて蔵に入れば、今年の米は溶けやすいか、溶けにくいか、どんな成分を持っているかを体が知っているから不安がない。データより何より、人間の勘でできるのがいい」
 高橋杜氏自身、夏場は約1.5ヘクタールの田んぼで酒米を、約20アールの畑でセリを育てる。十月中旬、蔵に入るころにはその年の米の状態が体に染み込んでいる。
 「日本酒は米と水、米麹だけで醸すもの」
 その信念が、原料そのものへのこだわりにもつながっている。
 高橋杜氏の言う日本酒とは、米と水で丁寧に造った「純米酒」のこと。華やかな香りを持たせるために醸造アルコールを添加したり、大量に生産しようと水やブドウ糖、酸味料などを加えた酒は「本物の日本酒ではない」と言い切る。
 「本物の日本酒は、出回っている多くの酒の中でほんの一握り。どんなに機械が進歩しても、どんなに何かを加えても、決してまともな酒にはならない。原料は米と水と米麹だけ。あとは人間の勘が品質を左右する」

酒は生きている

 「蔵癖」という言葉がある。酒蔵を取り巻く環境によって、水、米、温度、風通しなど、酒造りに必要な条件は異なる。その土地の風土、その年の気候によって、酒の出来具合はいかようにも変わる。
 「例えばここは海沿いだから、内陸部の酒蔵とは水が違う。齋彌酒造店に入った当初、三年ぐらいはなかなか蔵癖がつかめずに苦労した。五年ほど経って、蔵のいい部分、悪い部分が分かってきてからが酒造りの勝負」
 酒造りに懸ける情熱は、若いころから変わらない。ただ、蔵癖をつかんだ人間の技術こそが「いい酒」を造るとはもう思わない。
 「人間が酒を造るなんて、おこがましい。酒は生きている」
 そうきっぱりと口にする。
 「たとえ蔵癖を知り尽くしたとしても、ここは、人間がしゃしゃり出る世界じゃない」
 それに気づいたのは、新酒鑑評会各賞を総なめにした後、大きな壁にぶち当たった時のこと。酒造りを始めて三十年余り経ったころだった。

三十歳で杜氏に

 蔵に入ったのは、かつての経済成長期。三十〜四十代の働き手が地方から首都圏へと大量に流れ出た時代。団塊世代直前生まれの高橋杜氏自身、東京を夢見たひとりだった。「地方にいてもメリットはないのではないか…」。そんな不安の中で、家庭生活を大切に営みながら暮らしていこうと「我慢して行かなかった」と振り返る。地方に残った働き手は少なく、活気のある若い労働力が必要とされていた時代でもあった。
 生まれ育った旧山内村には、“山内杜氏”で知られる酒造りの人材と技が継承されている。蔵人だった祖父からは、子どものころから酒造りの何たるかを聞かされて育った。やがて十九歳で角館の北仙酒造に入ってから、蔵人としての生活が始まる。当初は、毎日が風呂当番。杜氏や蔵人たちの背中を流すことから蔵の仕事を覚えていった。
 精米、洗米、蒸米、仕込み、もろみなど多くの工程にわたる丹念な酒造りは、それぞれの技を経験しなければ酒造り全体を知ることができない技の世界。各工程を任され、次の技術を身につけようと蔵を渡り歩くことで酒造りを体得していく。「一国一城の主になりたい」と技術を磨き、北仙酒造から弘前市の吉井酒造へ、そして三十歳という若さで杜氏の資格を取得した。その後、地元に戻ろうとの思いから旧六郷町の京野酒造へ、さらに齋彌酒造店へ入り、由利本荘の海沿いで新たな挑戦が始まった。

櫂(かい)入れをしない

 酒蔵に入れば、そこは世間とはまるで違う特殊な世界。空気、水、米、温度など、不確実な要素が寄せ集まった空間だからこそ酒造りは難しい。しかし齋彌酒造店に入って数年後、蔵癖をつかんでからの品評会における高橋杜氏の快進撃は止まらなかった。
 「どんな品評会にも勝てる自信があったし、勝ってきた。ここまでできるのはおれしかいない、とも思っていた。大手の酒蔵をごぼう抜きにするのは快感だ。『おれのほうがいい酒を造れる』『負けたくない』と、本当に必死でやってきた」と真剣に語る。ところがある時、いつの間にか自分が壁にぶち当たっていることに気が付く。自分のやりたいことが分からない。酒造りが分からない│。これまで苦労の連続だったが、ある日「どうやら最後の壁にぶつかったな」と観念したという。そしてスランプの末に気付いたのが、「酒は人間が造っているのではない」という酒造りの原点だった。
 「酒は人間が主張して造れるものではない。人間は、酵母が酒を醸しているのを手伝っているだけ。おれは酵母に見放されたんだ」
 そう気付いてから、これまで誰もしなかった画期的な酒造りが始まった。齋彌酒造店では、酒造りにおいて決して櫂入れをしない。櫂を入れるのは仕込みの時だけだ。後の発酵は酵母の力に任せ、タンクの中で自然に対流が起こるのを邪魔しない。その年に授かった米と水とその状況を、人間の技や思いよりも、酵母に任せてただ自然体で醸していく。
 「人間が立ち入ることのできない不確実な世界のことは、目に見えない世界のままに託して待とう」
 そう思い立ってから約十年。日本初のオーガニック日本酒の認証を受け、高橋杜氏は昨年、還暦を迎えた。「おれはやりたいようにやってきた。自家培養した酵母もそれなりに育ってきた。時間はかかるが、無理のない酒造りをしていきたい」と話す。
 酒は好きで、毎日飲む。「飲み手の心が大切だ」と、酒を愛おしむ。酒蔵に満たされた芳香の中で、鋭くもあたたかな目が光る。


(2006.2 Vol56 掲載)

たかはし・とういち
1945年横手市(旧山内村)生まれ。19歳で北仙酒造(旧角館町)に入って以来、酒造りに携わる。吉井酒造(弘前市)に勤めていた75年、30歳で杜氏資格を取得。吉井酒造から京野酒造(旧六郷町)を経て、84年から齋彌酒造店(由利本荘市)の杜氏として酒造りに努める。2001年オーガニック工場の認定を受け、翌年、日本初のオーガニック日本酒を醸造。全国新酒鑑会、秋田県清酒品評会、東北清酒鑑評会などで受賞多数。05年全国新酒鑑評会で金賞受賞(7年連続)。現在、齋彌酒造店取締役製造部長。由利本荘市在住