第2ステージは米国留学
バスケの申し子・田臥


 平成8年4月21日。一人の小柄な少年の活躍に秋田市立体育館が沸き返っていた。
実業団をも含めたバスケットボールの秋田県ナンバーワンチームを決める試合で、
その少年は190センチ近い大男たちの谷間に分け入って得点を積み重ねていた。
田臥勇太。横浜市の大道中学出身。NBA選手のパトリック・ユーイングとのテレビCM共演などで、
知る人ぞ知る存在だったとはいえ、秋田県内ではまだまだ無名に近かった。
少年のその後の活躍が、高校バスケの名門・能代工の高校史上初の三年連続三冠に結びつくとは、
まだこの段階では誰もが予想だにしなかった。

 弱冠15歳。右も左も分からぬ土地にたった一人でやってきた小柄な少年は、バスケット王国・秋田の最高峰の大会である県男女総合選手権で高校デビューを果たすや否や、百戦錬磨の大人たちをいきなり手玉にとった。JR東日本秋田との決勝で、最多の26得点。どう贔屓目に見ても中学生並にしか見えない体躯ながら、並み居る大人たちを蹴散らしてゴールへ一直線。得点能力の高さもさることながら、ゴールへ行くと見せかけてのトリッキーなパス回しに会場の視線はくぎ付けになった。

 証言1 「CMに出ていた田臥君というイメージしかなかった。まさかあれほど順応性が早いとは。普通、中学と高校ではボールのサイズも違うでしょう。それがいきなりあれだけのボールハンドリングができるんですから」JR東日本秋田・神田博徳コーチ

 証言2 「特に周りを生かすプレーが素晴らしい。見ていて楽しくなるプレーヤーですね」加藤三彦・能代工監督


 名門・能代工に入学してまだ二週間での衝撃的なデビュー。
 「うれしいですけど、ガードの仕事がまだ良く分からない。先生に言われないとまだ試合の指示もできないし…」。いきなり周囲の度胆を抜くプレーをやっておきながら、インタビューに応じる田臥は、はにかみながら小声でそう答えるのがやっとだった。横浜出身。快活な少年像を勝手に思い描いていただけに、そのギャップに戸惑った。と同時に彼の妙に人なつっこそうな目がなぜか印象に残った。
 それにしても、大道中学時代に全国大会ベスト4、個人でも大会ベスト5に選ばれている田臥が、平成十一年の国体開催地として強化を進めていた地元・神奈川ではなく、進学先になぜ能代を選んだのだろうか。
 「ガードとしての自分の能力を生かし、伸ばしてくれるのは日本中で能代工しかないと思っていた」。田臥はその理由を明快に答えてくれた。バスケットでいうガードのポジションは、いわば攻撃の司令塔。ゲームメーカーとしての力量が、そのままチームの力量を問うとも言える大事なポジションである。
 能代工は古くから日本を代表する名ガードたちを輩出してきた。モントリオール五輪代表の山本浩二(NKK)、初の高校三冠の立役者・小野秀二(愛知学泉大監督)、そして現在の日本代表チームをリードする長谷川誠(ゼクセル)。田臥は小柄な自分がもっとも力を発揮できる環境を能代工に見いだし、全国中学大会終了後に能代行きを自らの意思で決めた。
 能代工の加藤廣志前監督(アリナス館長)は、身長の低さを攻防の切り替えの速さで補うことをチームづくりの指針とし、高校スポーツ界で比類を見ない全国常勝チームを育て上げた。切り替えの速いバスケットには臨機応変な戦術を組み立てることのできるガードの存在が不可欠である。従って能代工の強さの中心には良きガードがあり、逆に良きガードがいるからこそ「必勝不敗」の名の通りの活躍が可能となる。


 証言3 「田臥君は身長というハンディを持っているにもかかわらず、相手との駆け引きがうまい。勘がいい。能代工業始まって以来のスーパーガード。いずれ、今後は良きライバルとして僕の前に現れるでしょう」全日本ガード・長谷川誠さん



 田臥はバスケットの魅力をこう語っている。「相手をだまして得点するときが最高。特に相手がデカイときなんかは」。173センチという身長を補って余りあるテクニックと度胸。在学中に高校の全国タイトルを総なめ(九冠)にし、現役高校生としては唯一の全日本代表候補選出、さらにチームとしての秋田県民栄誉賞受賞。結果的に田臥の能代工進学は、彼本人のためにも能代工のためにもプラスだった。

 証言4 「勇太が能代行きを言い出したときには、『本当にいいのか』と何度も念を押しました。小さい頃から、外から帰ってくると、『すぐに『おかあさんは?』が口癖の甘えん坊でしたから。俺はダメだろうなって思っていました」田臥の父・直人さん

 そんな家族の心配をよそに、田臥は能代での三年間を糧に飛躍的な成長を遂げた。「ホームシックですか?それは一度もありません」。田臥はバスケットに熱中することで異郷での暮らしを逆に謳歌した。秋田弁を必死に覚え、仲間、そして秋田の地に解け込んだ。「秋田に来たから自分がこうなれたのだと思っています。地元の人の声援が何よりの励みだったし、今の自分はまったくの秋田県人のつもりです」(田臥)。

 証言5 「三年間の辛抱だって自分に言い聞かせて勇太を能代に送り出したけど、今は大正解だと思っています。勇太は能代に、バスケットに育ててもらったようなものです」田臥の母・節子さん

 その田臥が能代工卒業後の進路として、バスケットの本場・米国への留学を選んだ。その理由はまだ田臥本人の口からは明かされていない。雑音に惑わされずに慎重に進路を選ぶべき、という学校側の配慮で進路についてのかん口令が敷かれているためだ。
 父・直人さんが言う。「いろんな人から進学先を尋ねられるが、実際のところ、まだ何も見えていない状況です。勇太が米国行きを決意したのだから、親としては借金してでもその夢をかなえさせてやりたい。でも、実際のところ、まだ何も見えていない。親としてもその辺が不安なところなんです」

 証言6 「自分一人でアメリカへ渡って武者修行する。そういう前向きな気持ちを持てるというのはすごいことです。体力的に相当なハンディがあるとは思うが、長野五輪で金メダルを獲得したスケートの清水宏保選手のように、ウエートトレーニングと栄養学の組み合わせ次第では、まだまだパワーアップは図れるはずです。アメリカでもまれて帰ってきたら、五輪出場を目指す日本チームの中心選手として活躍してほしいですね」能代工前監督・加藤廣志さん

 2月下旬、田臥は米国へ留学のための下見に出かけた。中学生の頃、あのユーイングとのCM共演で訪れたことのある地だが、今度はたった一人旅。「高校三年間は常に団体行動。一人で動くことなんてなかったでしょうから、経験を積ませるための下見です。どこを見て回るのかも、航空券の手配もすべて勇太一人に任せっきりです。チケットを一人で買えるようになったら、もし、アメリカでの生活が嫌になってもすぐに戻って来れるでしょうから(笑い)」と直人さん。
 当の田臥はこう言う。「バスケットができるなら、(進学先は)どこだっていいんです」。その心意気よし。3月3日。田臥は能代工を巣立った。3年前と同じように、右も左も分からぬ土地で、田臥のバスケ人生の第二ステージがいよいよ幕を開ける。能代工時代にガードとしての天性の才能を開花させた田臥が、本場のプレーヤーたちにどう立ち向かうのか。「秋田の田臥」。当分、彼から目が離せそうにない。


(1999.3 Vol.17 掲載)
佐川博之


田臥勇太 (たぶせ・ゆうた)

★生まれ 昭和55年10月5日生まれ。血液型A型。
★競技歴 大道小(横浜市)2年のときに3歳年上の姉・志穂さんの影響でバスケットを始める。大道中3年のときには全国大会でベスト4入り。ベネッセコーポレーションのテレビCMでNBAプレーヤーと共演するなどして脚光を浴びた。能代工入学と同時にスタメンとしてゲームに出場。3年連続三冠達成の原動力となる。3年のときには主将。昨年、男子バスケット界で高校生では二人目の全日本候補選手に。ジュニアでも昨年のアジアジュニア選手権でチームを3位に導き、世界選手権出場を決めた。
★サイズ 173センチ、68キロ。足のサイズは29センチ。
★趣 味 バスケのビデオ鑑賞。小学生のころは、父・直人さんが知人からダビングしてもらったNBA関係のビデオを食事しながら見る毎日だった。
★家 族 横浜市金沢区の自宅に両親、姉、祖母。