Reiko Watanabe 渡辺 玲子さん ヴァイオリニスト・国際教養大学特任助教授

音楽が秘めている愛と、真実を探る旅。
究めた者のみが知ることのできる、本質。
真実を探るように、音楽を広く、深く、探求する。

 秋田の春は、すがすがしい。
 四月の週末は田沢湖をレンタサイクルで一周した。澄み切った空気を吸いながら、トレッキング・シューズをはいてハイキングもした。休日は同僚とともに歩き、疲れた体を山あいの温泉でときほぐした。
 「これほど自然を感じられるようになったのは、秋田に来るようになってから。演奏活動で世界中をまわっても、自然との接触はまるでなかったから」
 日本音楽コンクールにおいて史上最年少の十五歳で最高位を受賞し、注目を集めた。若くして音楽界に登場して以来、ニューヨークを拠点に世界各地で演奏する。超絶的 と評されるテクニックで積み重ねてきた経歴は華々しく、甘美で情熱的な演奏は世界中を魅了する。
 秋田で暮らし始めたのは二〇〇二年。国際教養大学の特任助教授に就いてからは、四月から七月までの春学期を秋田で過ごす。春から初夏の光と風が、音楽人生におだやかな彩りを添えている。

愛情を与える音楽

「ヴァイオリンは、あらゆる楽器のなかでもっとも人間の声に近いといわれている。まるで言葉で語りかけるかのように、音楽が流れていく」
 秋田市のアトリオン音楽ホールで開かれた音楽セミナー・コンサート「音楽に秘められた愛」。国際教養大学の講座として開かれ、学生だけでなく一般市民にも公開された。演奏したのは、カロル・シマノフスキやパガニーニなどの名曲。なかでもシマノフスキのヴァイオリン曲「神話 三つの詩」は、ギリシャ神話に着想を得て書かれた独特の色彩感覚を放つ作品だ。
 その音楽詩を構成する「アルトゥーサの泉」では、水の流れや泉の泡が消える神秘的な情景を。「ナルシス」では、不毛でありながらエロティックな愛を。「ドリアードとパン」では、牧神パンが奏でる笛の音色を表現した。
 「ヴァイオリンというひとつの小さな楽器で、これだけ神秘的に、これほど官能的に表現できるのは驚きでしょう。ヴァイオリンはもっとも人間の声に近く、オペラティックに歌える楽器。左手でビブラートをかければ、より響きが豊かで、変化にとんだ音色を生み出すことができる。ヴァイオリンは西洋音楽の歴史のなかで、三百年以上もの間、中心的だった存在。たくさんの愛情と、真実を語ってきた」
 音楽のなかに秘められた愛情を音楽的かつ哲学的に解釈しながら、たぐいまれな技術と表現力で演奏する。ヴァイオリンを支えて揺れ動く小さな体は、まるで強靱なバネのようであり、時に柔らかく、激しくしなり、陶酔するままに崩れていく。

若くして才能が開花


 自らを「最年少症候群」と呼ぶほど、才能は早くから開花した。
 十五歳の時、日本音楽コンクールにおいて史上最年少で優勝。一九八四年にはヴィオッティ国際コンクールで最高位、八六年にはヴァイオリニストであれば誰もが憧れるパガニーニ国際コンクールで最高位を受賞した。
 「表現するには、それを突き詰めなければならない。ヴァイオリニスト、その中でも協奏曲などの独奏パートを華やかに演奏するソリストとして活躍するには、十六歳から二十歳ぐらいまでに演奏家としての基礎が出来上がっていなければならない。芽が出るかどうかは十代の初めで決まるんです」
 才能が注目を集めてから、高校を中退して大検を選んだ。その後、単身渡米してニューヨークのジュリアード音楽院に全額奨学生として留学する。新たな道を得た陰には、恩師ジョセフ・フックス氏との出会いがあった。
 「高齢になられてからも衰えることのない音楽への強い愛情、情熱。その真剣な姿を間近で見せていただいた」
 以来、ニューヨークを拠点に世界各地でオーケストラと共演する。各国で開くリサイタルでは、 超絶的 と評されるほどに圧倒的なテクニックと玲瓏な音色、知性や音楽性の豊かさ、優美で劇的な表現力が観客をとりこにする。
 「十代、二十代と、とにかく夢中でやってきた。四十代になるいまが、私にとって新しい境地を開くために実は一番大切な時」
 その時をいま、秋田で過ごしている。学生たちから受ける新しい刺激が、彼女をより輝かせる。

秋田で新たな刺激


 「クラシック音楽は、その長い歴史のなかで積み重ねられてきた構築性と和声(ハーモニー)によって厳しい土台がつくられている。土台の上で時々ルールを破ったり、聴く人を驚かせたり、独創性をアピールすることもできる。何をどう表現するかは、その人の 個性 と 創造性 」
 四月から七月にかけての春学期。ヴァイオリン曲にとどまらない西洋音楽や演奏の歴史を若い学生に講義する。授業はすべて英語。音楽の歴史を軸に音の広がりを理論的にとらえ、ビデオを観たりヴァイオリンやピアノで実演しながらクラシック音楽の面白さ、豊かさを語る。
 「これまでプロに教えることはあっても、演奏家ではない学生たちに教えたことはなかった。ひたすら練習をして、コンサートホールの舞台に立ち続けてきた。このままでいいのかと考えていた時だったから、秋田で講義をする場を持つことは私にとって世界を広げるいいチャンス。学生たちと接することで、意外な驚きや喜び、刺激を受けることも多い。視野を広げることで、開かれ、見えてくるものがきっとあるはず」
 特任助教授としての日々を「授業の準備に追われ、戦々恐々としながらも楽しんでいる」という。秋田に来たことで、張りつめた演奏家人生にゆったりとした時間と心に染みる風景が織り込まれた。
 「ソリストにとって、四十代まで無事に演奏してこられたのはすごいこと。演奏家として円熟するには、四十代、五十代と、年を重ねるとともに演奏を深めていかなければならない。だからいまが、人生でもっとも試されている時」

年齢を重ねて深まる表現

 音楽は、言葉で表現できるものではない。言葉よりもっと深い表現であり、哲学でもあるという。
 「音楽が表現するところの真実とは何であるか、その本質をどうとらえていくか―。それは経験とともに、年齢とともに深まっていく。人生そのものが音になる」
 本質をとらえ、真実を求め続ける音楽。その追究の過程にあるいま、確かに見えてきたものがあるという。
 「私には、ひとつのものを突き詰め、究めて生きてきた自信がある。突き詰めていけば、本質に近づく可能性があることを知っている。どんな分野においても、何事にも、それは共通していると思う」
 その小さな体は揺るぎなく、凛とした空気をはらんでいる。音楽への探求はたゆみない。


(2006.10 Vol60 掲載)

わたなべ・れいこ
1966年東京生まれ。3歳半からヴァイオリンを習い始め、15歳で日本音楽コンクール優勝。84年ヴィオッティ国際コンクールで最高位受賞。85年ジュリアード音楽院に全額奨学生として留学、92年同音楽院大学院修了。86年パガニーニ国際コンクールで最高位を受賞して以来、ニューヨークを拠点にオーケストラとの共演やリサイタル、国際音楽祭への参加などを中心に世界的に活躍。2004年から国際教養大学特任助教授。05年、優れた芸術家に与えられるエクソン・モービル賞受賞。ニューヨーク在住