ジョエルタイトル

 昨夏、米国シカゴで行われたラート競技の世界選手権種目別直転。会場に響いたのは、欧州ハンガリーの民族舞曲として知られるモンティ作曲「チャルダッシュ」だった。始まりはバイオリンの緩やかな旋律。音色に合わせてラートをゆったりと回転させ、優雅に、軽やかに。音楽が急速なテンポに変わってからも、ラートを自在に操っては長い手足で伸びやかに舞う。観客から沸き起こった手拍子と共に華やかに、ダイナミックに。時にはしっとりと滑らかに、指先や爪先にまで哀愁を感じさせながら。
 「ラートはゆったりとした曲を使うのが主流で、チャルダッシュのように抑揚のある音楽で演技するのは少数派です。手拍子を誘って、会場と一体となってアピールできれば、印象に強く残るはず。うまくいきました」
 結果は見事、個人総合優勝。日本人として初めてであり、ドイツ人以外が個人総合で優勝するのも初めてという快挙だった。

体育館が遊園地に
 ドイツで遊び道具として考案されたラートは、大きな鉄製の輪を平行につないだ器具を使って行う体操競技のひとつ。競技には直転、斜転、跳躍の3種目があり、種目別の得点と総合点とを競う。日本ではまだマイナーなスポーツだが、特にヨーロッパでは人気が高い。その理由は何より、子どもから大人まで比較的簡単に3次元の回転が体験できる気軽さだ。それはまるで、宇宙遊泳をしているかのようにダイナミック。華やかなショー的スポーツであるばかりでなく、気軽にできることから生涯スポーツとして評価され、海外では身体・精神障害者のためのリハビリ的スポーツとしても知られている。それに腹筋や背筋を締めて正しい姿勢を保つことがポイントになるため、肩こりや腰痛の予防、背骨の矯正、シェイプアップ効果、逆さまになる開放感で得られるストレス解消などラートがもたらす身体的・精神的効果は大きい。
 「ラートで回転するのは難しいように見えるかもしれませんが、ハードルはかなり低いんです。誰でも短時間で3次元の回転ができるようになって、体育館が一瞬にして遊園地になる。ゆっくり回ったり、速く回ったり、縦回転や横回転。そこには完全に非日常の世界があります」
 自身が学生時代、初めてラートを使った時に感じた「回転を自在に操っている感覚」が原点。大きな輪の中心から自分の力で世界を回す感覚がラートならではの魅力だ。

挫折して出会ったラート
 高校時代までは野球一色だった。甲子園に行くことが夢だった野球少年は、指導者を目指して大学を受験する。ところが浪人時代に負った右足のけがが予想以上に悪く、悩んだ末に別の道を選択することに。ここまでは、よくある話なのかもしれない。しかし彼が選んだのは、それまでの人生で最も苦手だった体操の道だった。あえて違う世界へと飛び込んだのだ。
 「けがをして挫折したことで、自分がどれだけ体を動かすことが好きなのかが分かったので、スポーツを楽しみたいという意識が強くありました。体操部全体の雰囲気がとてもよく、倒立することさえできなかったぼくをも受け入れてくれた。苦手意識があった分、全ての経験が新鮮で、全てポジティブに考えられました」
 そして出会ったのが、ラート。のめり込むうちに体が体操に適応していった。野球で培った筋力に加え「体を締める」力の入れ方を覚えた。さらに、回転によって生じる遠心力を操るバランス感覚も磨かれていった。当初の苦手意識は消え、徐々にラートの腕は上達。しかし日本でトップを狙えるまでにはならなかった。ラートは趣味にしようと就職活動で内定をもらい、社会人生活の準備を進めていた大学4年の冬、「なぜか急に、うまくなった」。

回り道でつかんだ優勝
 「体操を始めて3年経って、ようやく体を動かすコツのようなものが分かってきました。縄跳び、トランポリン、Gボール、組体操などの体の使い方には共通点がある。体操全般を通じ、それが理解できるようになってきました。ラートだけやっていてはうまくならなかったかもしれません。就職することは決まっていましたが、上位を目指せる手応えと、何か予感がありました」
 忙しい編集の仕事に就いたが、平日で全て終わらせた。土日だけはラートをすることに必死だった。そして、ある賭けに出る。世界選手権の日本代表になることと、大学院に合格すること。この2つが達成できたら会社を辞めようと決意。そして2011年春、退職した。
 「これまで何度も挫折をして立ち直り、回り道もしてきた経験から多くを学び、それが今の自分を支えている。だから、短絡的に勝利を求めるような選手にはなりたくなかった。国内はもちろん、世界においても大外から差してやろうと狙っていました。勝つために必要だったのがメンタルコーチング。友人でもあるコーチの指導で、目標設定とその期間を明確にしていった。それは演技そのものよりも、ぼくのラートへの取り組み方を支えてくれました」
 がむしゃらだった男が、自分を冷静に見詰め始めた。メンタル面はもちろん、審判の目線で捉えた点数の取り方、観客に与える印象などを考え、協力者の力を借りながら「勝者にふさわしい姿」を追い続けた。そして12年、全日本選手権で並み居るライバルたちを抑えて初優勝。その勢いのまま、翌年には世界選手権の個人総合で見事、優勝を果たした。

これからがスタート
 世界で優勝はしたが、「ここがスタートライン」との思いは強い。
 「応援してくれる人は増えましたが、もっとラートの魅力を伝えたい。このままでは終われません」
 体育館が遊園地に変わってしまうほどの楽しさは、体験してこそ分かるもの。だから自分がやれる限りラートに取り組み、楽しさを伝え続けていくつもりだ。
 「日本でラートが気軽に体験できる拠点をいくつもつくること、そして世界トップレベルの舞台で戦い続けることを目指しています。両立は大変なことかもしれません。でも大変なことに挑戦するのは慣れているというか、好きなんです。その方が自分でも信じられないくらい心の底からエネルギーが湧き上がってきます。先が見えているような人生は進みたくない。先が見えない方が、楽しいじゃないですか。危険な方が自分のエネルギーが出せる。難しい方が、頑張って立ち向かっていける」
 競技生活と普及活動を両輪に、回り続ける。来年に迫った世界選手権で連覇を果たし、さらなる活動の展開を思い描いている。

(2014.4 vol105 掲載)
たかはし・やすひこ
1985年仙北市(旧角館町)生まれ。角館高等学校卒業、筑波大学大学院修了。けがを機に野球を辞め、大学2年で筑波大学体操部に入部して以後、ラートをはじめとした体操全般に取り組む。2008年全日本大学選手権優勝、09年・11年世界選手権で団体3位。12年全日本選手権で個人総合優勝、13年世界選手権で個人総合優勝を達成。13年全日本選手権では全4部門で優勝した。スポーツ普及活動の一環として、マルハンWorld Challengersや全国各地でのラート体験会、地域の体操教室で幅広い年代を対象に積極的に指導を行っている。11年つくば市スポーツ大賞及びつくば市長賞受賞。 カイエンタープライズ所属。つくば市在住
高橋靖彦のHP http://www.athleteyell.jp/takahashi_yasuhiko/