Hikari Yamada 山田 光さん
’88年ソウル五輪 柔道-66kg級・金メダリスト

決戦の日。不思議と緊張感はなかった。わくわくした。胸が躍った。最後の最後までやれば勝てる。決して負けない。だから、私の試合を見てほしい。「オリンピックの選手になれ」。そう言われ続けて育った女性の胸に、その日、まばゆいばかりに光り輝く金色の「証」が舞い降りた。

 おどけながら、自分を「野生児」と評する。「誰にも負けない」自信と根性が持ち味。「子供のころは誰でもケンカが好き。『負けたくない』という思いは本能として持っているんじゃないでしょうか」。まあるい瞳を大きく見開いて話し、目を細めて笑い転げ、かと思えば冷ややかな据わった目で勝負師としての厳しさをチラリとのぞかせる。狙いを定めたワシのように、畳の上で体を躍動させながら技を繰り出す時のように、満身にみなぎるエネルギーが言葉に乗って力強く迫ってくる。童顔の穏やかな面立ちを引き締める、生成りの柔道着がやはり似合う。

走り続けた九年間

 幼いころはいじめっ子だった。三人姉弟の末っ子として育ち活発な少女時代を過ごした「野生児」は、当時既に六十を越えていた父の教育方針から当たり前のようにスポーツと出合う。
 小中学生の時はとにかく走り込んだ。一日も休むことなく走り続けること、それが「オリンピック選手を育てる」のが夢だった明治生まれの頑固な父から課せられた特訓だった。走り続けるためには当然、遊びに行けない。修学旅行やキャンプにも行けない。体調を崩しても、怪我をしても決して休んではならない。厳しい父と、いつも優しく励ましてくれた母。そんな二人に見守られ、小学校では陸上八百メートルを二分三十秒で走り切り、静岡県で第四位。しかし、どんなに走り込んでも一番にはなれなかった。「ラインの前に立つと今でもビクビクするんです。異常に緊張してしまう」。誰にも負けたくないというプレッシャーと戦いながら、何があろうとも走り続けた九年間が、知らず知らずのうちに足と腰を鍛えていった。
 走ることで自ずと頑強になった肉体と根性。その特性を柔道に導いたのは父の事故がきっかけで出会った整骨院の先生だった。「足腰が丈夫なら柔道をやってみないか」。朝晩は必ず走ることを父と約束し、週に二回は道場へ。一日一、二時間ほどの練習だったが、タイムとの戦いを孤独に続ける陸上と違い、柔道には投げたり投げられたりのゲームのような駆け引きがあった。やればやるだけ強くなった。みんなを投げ飛ばすのがおもしろかった。高校入学と同時に、迷うことなく柔道に転向。父とは朝のランニングだけは続けることを約束し、生活のすべてを柔道にかける佐々木 光の競技人生が始まった。


努力と工夫で勝つ競技

 「あのころは、ちょっと頑張れば沼津市で優勝するほどでした」。高校一年にして静岡県で優勝。全日本の体重別大会は県予選で敗退したものの、次の年は全国で準優勝。柔道界で一気に注目を集め、三年の時にはついに優勝。絵に描いたような活躍、勢いに満ちた大躍進。「でも今考えれば、まったく投げ飛ばせていないんです。無理矢理押し込んで優勝してました」。
 本格的に柔道を始めてまだ三年。「強くなりたい」と常に思ってはいたが、「優勝したい」と願ったわけではない。「ただ負けたくないんです。負けない、イコール、勝つということ。私、野生児ですから」。カラカラと笑う満面の笑顔が畳の上では戦闘モードに切り替わる。練習の時は「周りが見えない」ほど集中する。闘争心は誰にも負けない自信がある。「心技体と言われますが、やっぱり“気持ち”なんです。気持ちがなければいくら体力があってもダメ。柔道は努力したり工夫すればいかようにも勝てる競技なんです」。そんなおもしろさのある柔道の魅力に、いつの間にか取りつかれていた。


挫折から五輪出場へ

 華々しい戦歴からは想像できないが、実は挫折の連続だった。しかし、負けてもそれをバネにする力があった。ところが筑波大学に入って一年目、決定的な挫折の時が訪れる。オランダで開かれた世界選手権で、筑波大柔道部の三人娘と呼ばれた山口香ら二人の先輩はメダルを獲得したものの、佐々木 光は一回戦で敗退。「三人のなかで私だけメダルがない」。日本に帰りたくない、シベリア鉄道に飛び乗ってどこかに行ってしまいたい│。メンソレータムの小さな缶をメダルに見立てておどけて見せたが、心の中は挫折感でいっぱいだった。つらかった。
 味わったことのない悔しさを経験して臨んだ大学二年の世界選手権。この大会でベスト4に入れば、オリンピックの出場権が獲得できる。結果は見事三位だったが、準決勝で負けた相手は前年一回戦で当たって負けたフランスのディディエ。また、勝てなかった。そして大学三年で出場したオリンピックの決勝でもまた、そのディディエと対戦することになる。


突然のアクシデント

 柔道はよく「日本のお家芸」と形容される。オリンピックではメダルをとって当たり前と言われ、一人ひとりにプレッシャーがのしかかる。しかし、七階級中五人が出場したソウル五輪の女子柔道において、メダルをとる確率が一番低いと思われていたのが佐々木 光だった。プレッシャーはあまり感じていなかった。
 ソウルに向かうひと月前のこと。全日本合宿での朝、起きると体中がぱんぱんに腫れ上がり、手を握ることもできないほどむくんでいた。練習すると過呼吸になり、どういうわけか体が動かなくなった。内臓疲労だった。「練習はするな。休め」。そう言われたが、これまで一度も休んだことのない練習を大事なオリンピック前にしないわけにはいかない。「練習を休むのも練習なんだぞ」と監督に言われ、ようやく休む決心がついた。それから一週間、まったく柔道着を着ることなく日々を過ごした。静岡から母が訪ねてきた。のんびりと体を休め、とことんリラックスできた。生まれて初めての経験だった。
 そして決戦の日。なぜか緊張感はなかった。前日には、ひとつ下の階級に出場した先輩が最後の二秒で内股をかけて勝っている。「私にもチャンスはある。最後まで諦めなければ勝てる。負けない」。試合前はいつも緊張する体が、その日に限ってわくわくしていた。応援に来てくれるすべての人に自分の柔道を見てほしかった。そんなふうに思ったのも初めてだった。二十一歳の夏だった。

人間性を鍛える

 決戦の日から十三年。一個人としての評価の前に「金メダリスト」の肩書きが常につきまとう。今は、それが邪魔でしかたがない。「オリンピックでの優勝、自分では昇華しきれていないんです」。決勝戦。内股を返してからそのまま抑え込んだ瞬間、ディディエがひざを脱臼し佐々木 光の優勝が決まった。複雑な思いは残ったままだ。金メダルをとっても、負けん気が強くて真面目で野生児のような自分自身は何も変わらない。「本当に柔道が好きで始めて、強くなりたかった。電車で言えば、ただレールに乗ってきただけ。オリンピックは駅のひとつ、終点ではないんです」。八回もの手術や挫折を乗り越え、オリンピックで優勝し、競技生活から退いて指導者となった今でもその旅は終わらない。
 柔道と出合い、変わったことがひとつだけある。中学の時は「道場で一番になれば、心も一番。全国で一番になれば、心も全国で一番立派な人にならなければいけない」と教わった。高校の時もそうだった。明るくて優しい柔道の先生にいつも心について教わった。人間性が鍛えられた。かつてはいじめっ子だった少女が、優しさを持ち、人の心の痛みの分かるひとりの女性になっていた。そしていつしか「教師になりたい」と願うようになっていた。
 佐々木 光が山田 光として秋田に来て教師となり、二人の女の子を産み育て、新たに世界を目指す選手を育てている現在もまた通過駅のひとつにすぎない。きりりと結んだ唇には負けん気が、きらめく瞳の奥底には、はるか地平線のかなたに進む一本のレールが映っている。

(2002.9 Vol36 掲載)

やまだ・ひかり
1967年、静岡県沼津市生まれ。筑波大学三年だった1988年、ソウル五輪-66kg級で金メダルを獲得。卒業後はミキハウスに就職。1995年、大学時代に柔道で知り合った山田公一さんと結婚し秋田市へ。聖霊短大、県体育協会講師を経て、現在、県立金足農業高校教員、柔道部監督。柔道四段。